ルビスコくんの日記

とある博士学生の日記です。

感情と理屈

この前、とあるYouTuberが面白い話をしていたのでメモ。

 読解力のない層は必ずいる。それはある世代に多いものかもしれないし、すべての世代に一定の割合で存在するのかもしれない。読解力がないと、まとまった理屈を理解できない。そのときの感情でしか物事を考えられない(ここでは「感情派」と呼ぶ)。感情派の彼らは「これがこうだからこうなるあるいはこうするべき、一方でこういう側面もある」みたいな論理の展開についていくことができない。一方でまとまった理屈を理解し、やりとりできる読解力のある層もある(ここでは「論理派」と呼ぶ)。

 10年ほど前まではインターネットも今ほどは発達してなかった。2ちゃんねるやツイッタを利用するのはマニアで、読解力のある層がほとんどだった。だが、PCとスマホを誰もが持つような時代になり、顔文字やスタンプなどができ誰もが利用しやすい環境が整えられると、読解力のない感情派の人々もそれらを利用するようになった。かつてはある程度分断されていた層の人達が同じネット空間に共存するようになったのだ。

 両者はお互いを理解できない。特に、政治・経済や倫理など、理屈っぽい話になると、両者の差が浮き彫りになる。ここで面白いのは、論理派の人からすると、その理解に関する壁、つまり感情派の人が理屈を理解できていないこと、あるいは理解していないまま何らかの主張をしていることは論理派の人からすると理解できるのだが、感情派の人からするとそれの何が誤りなのか理解できないのだ(そしてしばしば炎上する)。つまり論理派から見えている「理解の壁」が感情派の人たちには見えない。

 一方で、その逆もある。感情派の人たちはその時々の感情や感覚を大事にするし、それで行動が決まることが多い。論理派の人はそれが理解できない(これは僕の想像だけど、論理派の人もロボットではないからそういう瞬間は絶対にあるけど、その自分の感情を他人の行動を読むのに使えていないケースが多いのだろうと思う)。感情派の人はその時の感情で動くことが多いのだから、傍からみていくら非合理的な行動をしていても、当の本人の中では理屈がちゃんと通っており、合理的なのだ。雨が降っているならば傘を差すのが(少なくとも日本では)合理的だが、それでも傘を差さない人にはその人の中での理由があり、理屈がある。こういうことがわからない論理派の人からすると、感情派の人の言動は非合理的で不可解に映ってしまい、なにか壁があるように感じるのだろう。論理派の人はこれを「バカの壁」と呼んでしまう。正確には、彼らが他人の中の感情に鈍感なだけなのに。(個人名は出さないが、某実業家などはまさにこれに当てはまる。的確で的を得ている発言も多いけど、個人のなかの感情に全く興味がないのか、身も蓋もない主張になってしまっていることも多々ある。)

 この分断がかなりわかりやすい形で現れているのが、「意見の否定と人格の否定は違います」という主張である。いくら論理派の人がそう言ったって、自分が考えた意見を真っ向から否定されてると傷つくでしょ?っていうのは至極まっとうな感覚だと(感情派の僕は)思う。もちろん、いちいち傷ついていたら建設的な議論なんてできないし、割り切らなければいけないことはわかっている。だけどだからといって、「意見の否定と〜」をさも当たり前かのように他人に押し付けるのはちょっと横柄というか、優しくないなあと思うわけです。要するにそれを当然視しないでねってこと。

自分のなかの感情と論理、コントロールできるようになれば最強だよね。