ルビスコくんの日記

博士学生の日記です。考えたこと、学んだことを書きます。

小説を読む段階

僕は読書が苦手だった。小学生の頃からマンガやゲームのほうがずっと好きで、学校の図書館で借りたことのある本は『ブラック・ジャック』と『かいけつゾロリ』と『忍たま乱太郎』シリーズである。そんな調子で中学・高校に入ってさすがに親が心配し始めて、「なんでも良いから本を読みなさい」と言われたが、馬の耳に念仏だった。そのころはクラシック音楽に夢中になっていたのだ。自分の部屋に閉じこもって、お小遣いで買ったCDや、NHKのFM放送を録音したものをコンポで聴くのが楽しかった。読書なんて国語の授業で十分だし、なんでそんな地味でつまらないものにお金を出すのか理解できなかった。

 そこに、高校の授業で川端康成の『掌(たなごころ)の小説』のなかの一編が紹介された。もうどんな物語だったか忘れてしまったが、とにかくそれに「こんなに美しく、なんとも曰く言い難いむずむずした気持ちにさせてくれるものか」と感銘を受けた。そして本屋に行って文庫本を買って、一気に読んだ。それまでほとんど小説を読むといえば国語の授業でだけだったので、授業とは別に自分で勉強しているようで、ひとつ賢くなったような気分だった。そして、それを機に他の作家の小説も読むようになったのだが、その熱は1年と続かずにやめてしまった。それは「作品・著者に影響されすぎる」からだ。特に小説を読むと、生活が、思考がその作者のモードになってしまう。普段考えていることも読んだ本の作者の文体になってしまうのだ。太宰治の『人間失格』なんて読んだときは本当に自分が嫌いになって何をする気にもなれなかったし、三島由紀夫を読んだときは周りのものの色彩が強調されすぎているような錯覚(暗示)に陥ってしまう。村上春樹の長編小説を頑張って読んだら、どこか現実からは一歩引いたような冷めた思考に囚われた。「やれやれ」と心の中でつぶやいていた自分を思い出すと目頭が熱くなってくる。とはいえ、僕は「読書するとそんなモードに入ってしまう」という事実を数ヶ月後には忘れてしまうので、読書ペースは半年に1冊ほどに落ち着いた。

 そしてようやく最近(ここ3,4年)小説をまともに読めるようになってきた。それは小説を相対化することができるようになったからだと思う。物語のなかには入っていくのだけど、同時に作品を楽しむ視点ももつ。というのは案外読書の習慣がない高校生からすると高度な技なんじゃないかなあと思う。読書の相対化に気づいたのは、面白いことにマンガ「遊☆戯☆王」について友達と話していたときだった。このマンガの登場人物たちは、(僕ら大人にとってはただの遊びである)カードゲームに、文字通り命をかけている。デュエルに負けて闇の世界に落ちたデュエリストは数知れず。小学生の頃はそんなツッコミどころには疑問を持たずに純粋にワクワク楽しんでいたのだが、さすがに高校生や大学生になるとそれはネタになる。大学生の頃はそんなアニメが編集された動画をニコニコ動画で見て一人部屋で見てニヤニヤ笑っていた。その感覚を読書にも活かせばいい。「いや、そんなんありえへんやんけワロタww」というツッコミの視点を持って小説を読めば、まあ、最低限小説に入り込みすぎて気持ち悪くなるという事態は防げるだろう。(ただ、これをやりすぎると逆に小説が純粋に面白くなくなる場合があるのでバランスは必要)。

 もうひとつ、読書に関してやってよかったのは、読むのを完全にはやめなかったことだ。高校のときに小説を読んで、なんか生活が変になった、オカシイぞと違和感をバリバリ感じてても、その体験をその都度忘れながら年に数冊は読んでいた。そのおかげで、今は普通に読書を楽しめるようになっている。なので、読書に対して耐性がない高校生のときの僕のような人でも、年に1,2冊くらいは本を読もう。別にラノベでもなんでもいい。本屋に行って本を買うという行為を完全にやめてしまわなければ、とりあえずはいいんじゃないでしょうか。と、高校生のころ自分が持っていたような感覚に悩まされている人に伝えたい。