ルビスコくんの日記

博士学生の日記です。考えたこと、学んだことを書きます。

音ネタと漫才

僕は音ネタと言われる笑いがあまり好きではない。断然、漫才派である。

漫才というのは、トークをしていく中で論理を展開してある段階でいきなり論理を外し、常識からかけ離れたところに持っていったところでツッコミを入れる、という形式の笑いだ。その、漫才師のやりとりが、受け手(観客)が共有している通常の論理や常識からかけ離れていればいるほど、つまり「ギャップ」が大きいほど、笑いは大きくなる。ただ、ここからわかるように、漫才で笑いをとるには前振りが必要だ。最初に論理を展開しないと笑いは起きない。これは、受け手に対する説明であり、これからのボケの下地を受け手と共有する。だから漫才は説明的であり、論理的ということになる。

それに対して音ネタは、音、リズム、歌、ダンスだけで笑いをとろうとするものであり、漫才で行われるような説明はほとんどない。もちろん笑いが起きるためには、何かしらのギャップが必要なのだが、では何とのギャップで笑いが起きるのかというと、受け手の常識、想像とのギャップである。なるべく言葉で説明することなしに受け手にこれからの展開を予想させなければいけないので、笑いは受け手によって補完される度合いが漫才よりも強く(あくまで度合いの話です)、直観的な笑いだといえる。

こうして考えてみると、言葉で説明される漫才に対して、受け手が補わなければならない音ネタは、作り手が持っているギャップの感覚を共有できないと笑えない傾向が強い。2017年のキングオブコントで準優勝した「にゃんこスター」は、サビでもっとすごい技が出るか、と期待させておいて全然関係ない動きをしていたが、そういうギャップは非常に単純というか、もっと変化が欲しいと思ってしまった。まあ、そういう単純さの繰り返しが面白かったのだろうけど、僕にはわからなかった。

文学にしても、アニメにしても、その作品の雰囲気・行間を受け手が感じ取って受け手が補って作品を完成させるというのは、いかにも日本的だと思う。