ルビスコくん空を飛ぶ

博士学生(D1)の日記です.日記に加えてプログラミング(R)のメモ書きもします.

村上春樹『レーダーホーゼン』

久しぶりに村上春樹の作品を読んだ。なぜかはわからないけど、僕は夏になると村上春樹が読みたくなる。それで、一つの作品を読むとお腹いっぱいになって次の年の夏まで読まない、というようなサイクルになっているみたいだ。

僕にとって今年の村上作品は初期の短編集『回転木馬のデッド・ヒート』だった。これは著者の村上春樹さん自身が実際に人から聞いた話を基にしている。この作品の最初のお話が『レーダーホーゼン』だ。レーダーホーゼンとは、「ドイツ南部バイエルン州からオーストリアチロル地方にかけての地域で男性に着用される肩紐付きの皮製の半ズボン」(Wikipediaより)である。簡単なあらすじをかいておく。

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この話は、「僕」(つまり著者)の妻の友人の母親がドイツ旅行をきっかけに夫と離婚し娘(つまり「僕」の妻の友人)とも別れてしまった、というお話である。

彼女(友人の母、55歳)は、ドイツにすむ妹を尋ねるためにでドイツを一人で旅することになり、夫にお土産としてレーダーホーゼンを買ってくるように頼まれる。そこで、彼女は事前に安くて質の良いレーダーホーゼン屋さんの情報を妹から得て、ハンブルクの郊外にある店に向かった。その店への道中で、彼女は

「一人で旅をすることはなんて素晴らしいのだろう」

「彼女がずっとこれまで大事なものとして抱えて生きてきた多くのものごとー夫や娘や家庭ーは今はもう地球の裏側にあった。彼女はそれについて何ひとつ思い煩う必要はないのだ」

と、日常から解き放たれて自由を感じるのである。

そして店にたどり着いて半ズボンを買おうとするが、その店の方針が、実際にズボンを履く人に合わせて作るという完全オーダーメイド制をとっており、履く人がいないとズボンは売れない、というのである。仕方ないので彼女は夫と同じような体型のドイツ人を店に連れてきてレーダーホーゼンを手にすることができたのだが、寸法を測っている30分ほどの間に『自分がどれほど夫を憎んでいるかを初めて知』り、離婚を決意したのである。

彼女は、帰国したのち元の家には帰らず夫に離婚届を送りつけ、娘と夫を一方的に捨ててしまった。娘は、最初は母親のことを許すことができなかったが、半ズボンの話を母から聞いて母を憎む気持ちが和らいだ。

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どうして彼女は離婚を決意したのか。僕は初めこの小説を読んで全くわからなかったが、2回読んでようやく理解できたような気がする。作中で妻の友人が言っているように、やはりポイントは「半ズボン」なのである。

この母親は、作中で「我慢強く」、 「おとなしくて常識的な人」と紹介されているが、そんな人が半ズボンを一枚売ってもらうために店員を説得して街の見知らぬドイツ人に声をかけ、ほとんど無理やり店まで連れていって寸法してもらったのだから、だいぶ無理をしていることがわかる。しかも、それは自分のためではなく地球の裏側にいる夫のためなのだ。ここまでのシーンで、彼女は何一つ自分のための行動をしていない。初めて一人で海外を旅し、自由の素晴らしさに気づいたのに、結局は夫と家族のためにしか行動していないという事実に、寸法中に気づいたのだろう。それに加え彼女は、連れてきた、夫に姿形がそっくりなドイツ人に対して明らかに夫を投影している。自分の一人旅の邪魔をしたうえにこんな苦労までかけて置いて、なんでそんな楽しそうに笑っているのだ、そういう気持ちだったのではないだろうか。作中にも「レーダーホーゼンをはいた男をじっと見ているうちに父親に対する耐えがたいほどの嫌悪感が体の芯から泡のように湧きおこってきた」とある。

熟年離婚の原因は、20年以上辛抱強く家庭を守ってきた母親が初めての海外一人旅で自立を獲得したという単純な話ではなく、自分だけのものであるはずのつかの間の自由にさえも侵入してくる夫への憎悪が原因だったのではないか。そしてそのきっかけとなったのがレーダーホーゼンだったのである。