ルビスコくん空を飛ぶ

博士学生(D1)の日記です.日記に加えてプログラミング(R)のメモ書きもします.

大人であること

普段から「この人子供だなー」って思うことがけっこうあるのだけど(特にツイッターで)、じゃあ僕にとって「大人である」ための必要十分条件って何だろうと考えたところ、こういう結論になった。

他人の立場と背景を想像でき、その上で言動を決められる

 これに尽きるんだと思う。「他人の立場と背景」とは、別にその人が現在どういう身分でどこの出身でどういう大学に行き…といった単純な経歴を言っているのではなく、その人の人生であり、価値観のことをいっている。そういうものの存在を自分と同じ次元の存在として、尊厳をもって認めた上で、自分の行動を決めるというのが、上の言葉が意味するところである。

 中学高校のころ、先生は生徒たちにとって目の前の先生でしかなかった。自分たちとは完全に立場の異なるその存在について、「これまでその先生がどういう人生を歩んできて、今ここにいるのか」とか、「どういう思想を持っているのか」とか、そういうことについて関心を持ち思いを巡らせ、先生に対して接することのできる生徒は少ない。それは、まだ自分という存在を捉えることにいっぱいいっぱいだからだ。彼らは、まだまだ、自分の中で自己自身という存在について葛藤を抱え、精一杯格闘している段階だ。自分の存在についても解決していないのに、自分と境遇も年齢も全く異なる他人の人生について想像することは難しいだろう。せいぜい自分と同じ立場の仲間を思いやる程度である。時間をかけて、ゆっくりと徐々に自分との折り合いをつけいき、徐々に他人に対する視点を獲得していくのだ。そして、(もちろん人によるが)だいたい20歳ごろには決着がつく。そうしてやっと他人の人生というものを視野に入れられる状態になる。「自分がこれまで積み重ねてきたものと違うものを他人は持っているが、それはその人がその人の人生で、(ひょっとすると自分と同じようにして)獲得してきたものらしい」と完全に気づくのである。

 大人になれてない人たちというのは、自分と折り合いがついても次の段階に移ろうとしない、あるいは一旦その段階に移れてもそれを継続できない人のことをいうのである。だから、いつまでも自分の立場のことしか頭にない。彼らは子供なのだ。身体的・年齢的な意味での子供には自由がないが、大人の’なり’をした子供には金も自由も、加えて蓄積した狡猾さがあり、場合によっては年功序列というシステムで保証された権力も持ち合わせてしまっているから一層タチが悪い。

 他人の立場と背景を想像することは、誰かから教わることではない。人がその人生で他者との関わりの中で、徐々に自分で見つけるべきことである。それに必要な土台ができるきっかけも過程も異なっていていい。ある人は文学作品を通して、ある人は親の背中をみて、またある人は自然の中に身を置くことで学ぶのかもしれない。その過程は全て尊い。ただ、それを土台とした実践的な他人への配慮は他人との関わりからしか生まれない。「この発言をすれば相手はどう感じるだろう?おそらくこう感じるはずだ。だからこういう言い方でいってみよう」。で、後から考えてみるとそれは失敗であることに気付いたり、もっとうまいやり方があったことに気付いたりする。他人への思いやりは、この繰り返しで学習していくものである。これは他人とのコミュニケーションの量よりも質がものを言う。いくら友達が多くて他人とのやりとりの量をこなしていても、自分の中で反省し内向きに考えることがないと後天的に身に付けることができないからだ(「後天的に」と言う言葉を使ったのは、こういったことを物心ついた頃から完璧にこなせる(いい意味での)人たらしがいるからです笑)。

大人な態度は、こういう内向きの思考の繰り返しの末に身につくものだと思う。