ルビスコくん空を飛ぶ

博士学生(D1)の日記です.

東京のよさ

僕は関西出身で、子供の頃はとにかく東京が嫌いでした。行ってみたこともほとんどないのに。たぶん、自分の話している関西弁とは違うイントネーションで話す人がとにかく異質に見えたんでしょう。テレビの中で誰かが標準語を話していても何も思わなかったんですけどね。あと、満員電車。子重の頃にテレビで満員電車の様子をみて、正直人の住むところではないなと思いました(首都圏に住んでる人、ごめんなさい‥)。

ですが最近、この考えがだんだん変わってきました。ここ2、3年で何度か東京に足を運ぶうちに、東京のよさに気づいたんです。

 

「とにかくいろんな人がいる」という空気

僕が思う東京という街の魅力は、あのごった返し感です。特に駅前はいつ行っても人がたくさんいます。「自分の目の前にいる人の他にも何百万もの人がこの東京には暮らしているんだ」と感じてしまうんです。知識として持っているからではなく、街全体からそういう雰囲気を感じます。もちろん仙台や札幌でも百万以上人口はありますが、東京(正確には東京圏)は桁が違います。

それでいて、目の前の一人一人が全く空気みたいに通り抜けていくかというと、僕の場合そうでもありません。ひとりひとりに、東京で暮らしている人生がある、ということも街を歩いていて感じさせてくれます。もしかしてこういうのって、東京を舞台にしている創作物を読んだり観たりしてきたせいなのかな、とも少し思います。

 

ずっと嫌いだったものが好きになるっていうのは一つ得をした気分になりますね。

 

作業はRのプロジェクトベースで管理しよう

Rのプロジェクト機能の話。

Rを使い続けてはや3年になりましたが、Rの作業を効率化できることに今更気づきました。それは、Rstudioのプロジェクト機能です。まず、RstudioではなくR無印を使っている人はすぐにRstudioに乗り換えたほうがいいです(本題とそれるので詳しくは書きませんが、一番はエディタがすごく優秀だからです)。

 

きっかけ

で、Rstudioって、僕が使っているといろいろな作業をしているうちにタブをいっぱい開きすぎてごちゃごちゃしていたんです。ある解析用のスクリプトを開いて、数時間別の作業をするときに別のスクリプトを開いて、その中でsource()で呼び出すためのRスクリプトを開いて…というようにどんどんタブが増えていってしまいます。こんな状態は非効率だと前から思っていたのですが、ようやくRプロジェクトを使えばいいのだと気づきました。

 

何がいいの?

Rのプロジェクト機能を使うと、プロジェクトごとにタブを管理できます。つまり、自分が設定した作業単位ごとにRstudioを分けられるということです。

例えばRスクリプトA, B, CをXというRプロジェクトの中で開いても、YというRプロジェクトではそれらのスクリプトではそれらの設定は反映されず、D, E, Fというスクリプトを広げられるわけです。そして、環境変数も分けることができます。例えばプロジェクトX(←笑)でパッケージdplyrを読み込んでも、プロジェクトYにはそれは反映されません。

 

プロジェクトの作りかた

Rstudioを開いて、File -> New Project を選択すると中央に新しい画面が出てくるので、New Directory -> Empty Project を選択します。するとプロジェクトフォルダの名前を入力する画面になるので、適当な名前をつけます。こうすると、新しいフォルダができて、そのフォルダの中には"XXX.Rproj"(XXXにはさっきつけた名前が入る)というファイルが格納されています。これでプロジェクトの作成は終了です。

エクスプローラーなどから.RprojファイルをクリックするとRstudioが起動します。また、Rstudioを開いている状態では、画面の一番右上に現在開いているRprojectが表示されています。そこをクリックすると別のプロジェクトが表示されるのでそれをクリックして別のプロジェクトを開くこともできます。

 

スクリプトファイルを管理しよう

冒頭にも書いた通り、プロジェクト機能は自分の作業単位ごとにRの環境を使い分けることを可能にします。プロジェクトに関係するスクリプトだけを開けばタブもかなり整理されます。

このプロジェクトフォルダをベースにデータもスクリプトも整理してしまいましょう。プロジェクトフォルダの中にデータフォルダを作って、それとは別にスクリプト用のフォルダも作れば、スクリプトの管理もかなり簡単になります。画像は一例です。

どうでしょうか。Rのプロジェクト機能、かなりおすすめです。やったことない人は是非やってみてください。

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『個人的な体験』

大江健三郎の『個人的な体験』を読みました。 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 あらすじ

物語の主人公、「鳥(バード;あだ名)」は、妻の出産の知らせを聞いて病院に行くと、新生児の脳に異常があることがわかった。もともとバードはアフリカへの自由な旅行を夢見ており、我が子が産後に死なずに障害を持って育つことをなによりも恐れた。その事実から目を背けようと、義父からもらったウイスキーを持って火見子という女性を訪ね、酒と性に溺れた日々を送ってしまう。酒のせいで職も失い、ついには我が子の手術を断り退院させ、別の病院の医者に頼んでその病院で衰弱死させようとさえした。が、結局思いとどまって子供と一緒に生きていく決心をした、という物語です。

 

この小説の中で一つの問題となっているのが自己欺瞞です。

自己欺瞞とは、「自分に言い訳をして自分を納得させること、自分を正当化すること」です。バードは義父からウイスキーを受け取るときも、火見子の家にいくときも、子供が異常をもって生まれたことを言い訳に、自分はこんなにひどい目にあっているのだからこれくらい許されるはずだ、子供の死を願っても仕方ないはずだと、とにかく自己正当化のために現実から目を背けてしまいます。

自己欺瞞は、何もこの小説のような特殊な状況に置かれた人特有のものではありません。とても身近なものです。例えば、自分が受験に落ちたのは学校や塾の先生が悪いのだ、と考えてしまうのも自己欺瞞です。本当は、自分に実力がなかったことは頭のどこかではわかっている場合もありますが、その事実をありのままに受け入れることができないために人のせいにしてしまう。自分は悪くないんだ、責任は自分にはないんだ、これで面目が保てるんだ、という思考に陥ってしまうと、客観的な視点は失われます。

自己欺瞞の怖いところは、その状態になっていることに自分で気づくのが難しいところです。どうすればいち早くそれに気づくことができるか、明確な解決法はないと思います。あるとすれば、他人と話すことでしょうか。この小説では、バードは火見子、その女友達、菊比古という他者と会い、話をするうちに現実を受け入れるような心境に変わっていきました(作中では突然決心をしたように書かれていましたが、彼らの言葉がバードを少しずつ変えていったのだと思います)。

自分の話を聞いてくれる、自分のために意見をくれる人たちは大切にしなければいけませんね。

 

 

基礎科目

私たちは自然科学を研究する者として、基礎科目(物理・化学・生物と、それに必要な数学)を学習することをやめてはいけないと思います。なぜなら、自然科学にはこれまでの長い発見に発見を次いできた歴史があり、私たちはその歴史の流れの中にあるからです。まずは、その歴史のなかで積み重ねられてきたものを学ぶという謙虚な姿勢がなければいけないと思います。

そして、これまで積み重ねられてきたものは、私たちが数年で消化しきれてしまうほど少なくはありません。物理だけでも、力学から電磁気学、熱・統計力学量子力学など、それぞれ相当重い内容なはずです。これらを一から習得しようとすると、日々の研究をしながらの場合、(研究者が置かれている立場や状況によりますが)1日にそれらの学習に取れる時間は1時間もあればいいほうでしょう。そう考えると、大学生のような究極にひまな時期にゆっくり時間をかけて勉強しておくことがベストですね。特に物理のような科目は理解を積み重ねるのに時間がかかるので、研究で忙しくなってから始めるというのは全く得策とは言えません。一方で僕は勉強を始めたいと思った時が自分にとってベストなタイミングだとも自分に言い聞かせていますが。

学習を始めるにあたって自分がそれぞれの基礎科目についてどれくらい理解しているのかをわからなければなりません。私の場合、(ここまでこんなに偉そうなことを書いておいてすっごく恥ずかしいのですが、)高校の範囲については、物理は自信がありますが化学は忘れていることがいっぱいあると思います。生物はそもそも受験の関係で高1以来やってこなかったので生物基礎からやりなおす必要があります。ダメダメですね。。

「自分は大学院生なのだから大学の教科書から」という人がいると思いますが、そんな変なこだわりは捨てるべきだと思います。そういうプライドはなしで、本当に自分がどこまで説明できるほどの理解に達しているのかを一度考えてみたほうが近道になると思います。

リアル人生ゲーム完全攻略本

自分のビジネスをしながら大学院生として研究もしているちらさんという方(運営されているブログはこちら)がツイキャスで紹介していた『リアル人生ゲーム完全攻略本』という怪しいタイトルの本を読んでみました。著者二人の名前もなんだか怪しげですね。。

でも、読んでみると面白いことが書いてあったのでここで紹介します。

 

この本の構成は、

第1章:「説明書篇」

第2章「攻略本篇」

となっています。第1章では、神が人間にあてて書いた人生の説明書で、第2章では、それを受けて人間が現代日本で生きる中で生じるであろう様々なイベント(結婚、経済危機、災害 etc.)に対する攻略法が述べられています。

この本は、人生を神が作った「ランダムに決められた寿命の中で幸福点を稼ぐゲーム」と設定しています。幸福点を得るために非常に大切なのはお金です。資本主義の現代ではお金がないと生きていけません。そのため、第1章でも第2章でも、お金についての話がとても多くなっています。その中でも特に参考になりそうなところだけピックアップしておきます。

今のお金の価値が将来も同じだと思ってはいけない

 これって歴史なり経済なりを少し勉強すればわかることなんでしょうけど、日々生きていると忘れがちですよね。今1万円で買えるものが10年後には物価の上昇により1万5000円でしか買えないかもしれない。これはお金の価値が下がったことになります。ものの値段、お金の価値というのは経済の状況によって上下するのです。

 今、政府には1200兆円を超える債務があり、予算は税収よりも約数十兆円高く計上しなければ国を維持できないため、毎年毎年借金がかさんでいるのが現状です。そのため日本の財政はどこかのタイミングで必ず破綻する、というのがこの本の見方で、いくつかの筋道(詳細は本文参照)が語られています。そのときに、お金の価値が大きく変わってしまう可能性があります。そういう事態に備えて、事前に考えて自分のお金・資産を守るための策を講じておく必要があるでしょう。

 

面白いと思ったところ

このゲームでは幸福ポイントを稼ぐことが目的なのですが、ゲームのバグを利用してポイントを荒稼ぎしたプレイヤーがいて、2500年前からぶっちぎりで首位をキープしているという記述があったのですが、そのプレイヤーは「お釈迦様」です。このゲームを作った神は、幸福ポイントは生殖行為、美食、名誉名声、自尊心を満足させることなどによって得られ、それらによるポイント獲得を推奨しています。

しかし、幸福とはそもそも人間の心の作用であり、生きているだけでそれに匹敵する幸福感を得られるように心を鍛えることができれば、自分の身に何が起ころうとも幸福ポイントは稼げるわけですよね。本に書いてあった「ゲーム設定上のバグ」とは、人間の心のことだったんです。そういう哲学的(?)なところも読んでいて面白いと思いました。

特に「説明書篇」のところはおすすめです。こういう人生観もあるのかと。一方で「攻略本篇」は、、鵜呑みにせず、参考にするのがいいかもしれないです。

 

 

音ネタと漫才

僕は音ネタと言われる笑いがあまり好きではない。断然、漫才派である。

漫才というのは、トークをしていく中で論理を展開してある段階でいきなり論理を外し、常識からかけ離れたところに持っていったところでツッコミを入れる、という形式の笑いだ。その、漫才師のやりとりが、受け手(観客)が共有している通常の論理や常識からかけ離れていればいるほど、つまり「ギャップ」が大きいほど、笑いは大きくなる。ただ、ここからわかるように、漫才で笑いをとるには前振りが必要だ。最初に論理を展開しないと笑いは起きない。これは、受け手に対する説明であり、これからのボケの下地を受け手と共有する。だから漫才は説明的であり、論理的ということになる。

それに対して音ネタは、音、リズム、歌、ダンスだけで笑いをとろうとするものであり、漫才で行われるような説明はほとんどない。もちろん笑いが起きるためには、何かしらのギャップが必要なのだが、では何とのギャップで笑いが起きるのかというと、受け手の常識、想像とのギャップである。なるべく言葉で説明することなしに受け手にこれからの展開を予想させなければいけないので、笑いは受け手によって補完される度合いが漫才よりも強く(あくまで度合いの話です)、直観的な笑いだといえる。

こうして考えてみると、言葉で説明される漫才に対して、受け手が補わなければならない音ネタは、作り手が持っているギャップの感覚を共有できないと笑えない傾向が強い。2017年のキングオブコントで準優勝した「にゃんこスター」は、サビでもっとすごい技が出るか、と期待させておいて全然関係ない動きをしていたが、そういうギャップは非常に単純というか、もっと変化が欲しいと思ってしまった。まあ、そういう単純さの繰り返しが面白かったのだろうけど、僕にはわからなかった。

文学にしても、アニメにしても、その作品の雰囲気・行間を受け手が感じ取って受け手が補って作品を完成させるというのは、いかにも日本的だと思う。

気は病から

昨日の朝、お腹のあたりが気持ち悪く熱もあったのですぐに地下鉄で街の病院に駆け込んだ。診てもらった結果、胃腸炎と診断され、薬をもらって家に帰ってずっと寝ていた。39℃を超える高熱に苦しめられながら。今日はだいぶ良くなったからブログを書いている。

こういう病気をしたときって、思考が本当に不安でいっぱいになる。「僕がした選択はあっていたのだろうか」もっと具体的にいうと「ちゃんと博士号取れるだろうか」「将来安定した職につけるだろうか」など。頭が痛い、体がだるいとかよりも精神的なものの方がきついとさえ言える。ただ、去年も同じ時期に同じように寝込んだのだけど、去年の方がひどかった。今年は去年の経験があったからまだマイナス思考を客観的に捉えることができて、緩和されていたと思う。

寝込んで思考がマイナスになるようなことは、大学生のころまではなかった。熱を出して寝込んでも、何も考えずに寝ていればよかった。特に高校生までは親がいたから、何も考えずに親に病気の面倒をみてもらっていた。しかし、独立生計になって自分がもらうお金だけで暮らしている今、(今は幸運なことに給与のようなものをもらって生活している)もうそんな庇護などないし、博士を取ったあとは学生でもなくなりお金儲けも自分でしなければならない。そういうことに対する普段から持っている不安が、身体が弱ったことで露出するのだろう(僕もそういう年齢になったということだ)。

そして、そういうマイナス思考を止めるためにどういうことをしたかというと、それは「人と話す」。とてもシンプルだけどこれが一番効いた。友達にラインをして、彼女と電話で話した。そうすることで随分と気持ちが和らいだし、これからにも少し希望が持てるようになった。

病は気から、というが、気は病から、というのも間違っていないと思う。

ようやく100記事到達!

さっき見たら、前回の記事で100記事目だったそうです。ごく少数だと思いますが、いつも読んでくださっているかた、これからもやめずに続けていきたいので、よろしくお願いします。ただ、最初の方は自分の考えよりも今日何があったかを列挙してるだけのものがけっこうあるので、普通の文章を100個書いたという訳ではないのですが、とりあえず節目ということで。

最近、ちょっと書きたいモードに入ってきたので、ちょくちょくですがアップすると思います。というのも、友人に嬉しいことがあって気分が前向きなのと、言葉にならないモヤモヤしたものを抱えることが増えたからです。「頭の中で言葉にできないものが浮かんできたときこそ、物を書くチャンスだ」と、ちょっと誰か忘れましたが、誰かが言っていました。

インプットもしていかないといけないと思います。僕は強烈に自分の考えや信念を持っている人間ではなく、ブログや本などいろんなものを読んでそして考えて自分の地肉にしていく、というタイプなのだと思います。よく、自分の軸がバシッと決まっている人などを見ると憧れますし、科学者たるものそうでなければならないと思うこともあります。これから徐々にそういう自分の中の地盤を築いていきたいです。

研究メモノート

最近、新しい進捗管理法を使っているので、ここにメモする。僕はEvernoteを使っているが、Macの標準メモ帳でも、なんでもいいと思う。ただし、画像が貼り付けられる方がいい。自分で使っていて実験ノートみたいだなと思ったので、「実験ノート式研究メモ」と名付けることにする。

この方法は、自分の中の一つのプロジェクトに対して一つのノートを割り当てて、その中で日誌形式になんでも書いて行く、というもの。ノートのはじめにプロジェクトの目標と期限を書いておく。そして、そのプロジェクトの中に含まれている作業を列挙し、それを一つ一つクリアして行くのである。

作り方は次の通り。「〇〇の実験」というプロジェクトを掲げたら、最終目標は「実験で××を明らかにする」になり、その期限も決める。そして、次にその実験にはどういう作業が含まれているかを考えて、リストアップする。例えば、植物を育てる、機械の校正をする、実験環境のセットアップをする、、というように。ただしこのリストは最悪なくてもいい(日誌の中で考えていけばいいから)。そしてそれらが決まったら、そこから日誌形式にする。日付を書いて、今日はどういう作業をして、どういう結果になったかを一つのノートに続けてどんどん書いて行く。例えば、データの解析をしているなら試しに書いたグラフをノートにコピペしてそこに考察を加えたりする。あと、作業を進めて行くうちに新たな解決しなければいけない問題が出てくるはずなので、そのときは最初の「やるべきことリスト」にその問題を書いて、日誌を進める。

この日誌形式のいいところは、自分がどういう作業行程を経てきたかを可視化できる点にあると思う。こうすることで、自分が今最終目標からどの位置にいるのかがある程度実感できるようになる。

ここまで読んで、もしかしたら実験系で毎日実験ノートを作っている人からしたら何を今更、と思うかもしれないが、実験ノートを作らないフィールドワークをする人などはあまりこういうことをしている印象がないので、ここに書いた。のんべんだらりと研究するよりも、とにかくなんでも書いて残して行く方が、色々明確になって捗ると思う。

結婚について

最近、高校や大学の友人がちらほら結婚し始めてきたせいか、よく自分の人生計画と結婚について考えるのだけど、少しこの場で整理しておこうと思う。

僕は、「とにかく結婚したい!」とか「とにかく子供欲しい!」とかそういう強い願望は今のところない。まあできれば結婚したいし、子供もできれば欲しい程度である。だけど、結婚するなら「一緒に住む」ということだけはしたい。なぜ夫婦で一緒に住みたいのか?それは、うまく言えないが、そうする方が人間としての結びつきが強くなると思うからだ。一緒に住むということは、単に離れて付き合いをしているだけの関係とは大きく異なる。別々に住んで週に数回会うだけなら、その間だけよそ行きの顔をすることなんて容易い。会っている間だけ、あるいは連絡をとっている時だけ優しくしていればいいのだ。だけど、一緒に住むとなると、おそらくそれは通用しない。素の自分がどこかで必ず出てしまう。自分の見られたくないところも見せてしまうだろうし、相手の見たくないところも見てしまうだろう。単純に試行回数だけを考えても、週に1、2回会うよりも毎日一緒に生活する方が、ある期間の間にそういうのに遭遇する確率は上がる(というより遭遇しない確率が下がる、というべきか)。僕はそういうところを含めて自分を知ってもらいたいし、相手についてもしっかり知りたい。まあ、本当に知らない方がいいことも、もしかしたらあるかもしれないが…。

一緒に住むなんて当たり前じゃんと思うかもしれないが、同じ業界の人(つまり研究職の人)と結婚しようとする場合、研究界隈では任期なしのポストは非常に限られているため、夫婦共に研究職である場合同じ土地に二人で別の正規の職を得るというのは相当難しいのである。一緒に住むということを優先してしまうと、どちらかが折れて研究をやめてしまうか、やめるまで行かなくてもポストまでの道のりは遠くなってしまうことが多いだろう(ちなみに僕の周りでは、女性の方が遠回りをしているような印象を持っている)。僕はそれがどうしても嫌なのである。僕は結婚したいと思えるほど好きな人の夢や目標の障壁になりたくない。

この間、飲み会で「別に自分のポストが得られるならずっと別居になっても構わない」というポスドクのかたがいてとても驚いた。「それって結婚してる意味なくないですか」と言ってしまったが、本音である。ただ、僕も結婚したら絶対にずっと同じ家に住んでいたい、と言っているわけではなくて、数年間なら別居になっても構わない。将来は一緒に住めるような希望を持っていたい、ということ。