ルビスコくんの日記

とある博士学生の日記です。

節約する

今まで髪を切るのに美容室に通っていたのですが、それをやめた。

美容室に通ってきたのは、なんとなくオシャレそうだったから。高校の頃にそれまで通っていた理髪店にいくのやめて駅近くの美容室に行ってみると、それまでと全然違ってかっこよく仕上げてくれて、すごく満足だった。それ以来ずっと住む場所が変わっても理髪店ではなく美容室に通ってきた。で、経験上、値段が3000円切ると質が落ちるのでそれ以上の値段がする美容室を大学生のころから選んできた。

でも、最近やっぱりこれ高いよね!!って思うようになった。ここ一年利用してる店は一回4,000円。1.5ヶ月に一回はいくから、年間8回で32,000円。

利用頻度はどうしても落とせない。僕の髪はくせ毛で量が多くて伸びるのが速いから、切ってから2ヶ月もするとモサモサになる。めちゃくちゃ邪魔。

そもそもその32,000円を何のために払っているのかというと、ほとんど毛量を抑えるためなんだよな。大学院に進んでからおしゃれの割合はずっと低くなった。最低限ダサいとか気持ち悪いとか思われなければそれでいいと思うようになった。ていうか僕の髪型がオシャレかどうかなんて誰も気にしてないだろ、と。

で、先月中学以来の理髪店に行ってみたら、安いし全然ださくともなんともなかったのでもう美容室は使わないことにした。一回1,500円!今までの半額以下!これまでと同じペースで通ったとして1年で20,000円節約できる。仕上がりは、就活生みたいになってかなり無難な印象だけど、最低限ださくはないし、清潔感があるので全然よし。家から近いので時間の節約にもなる。

僕はガツガツ働いていっぱいお金稼ぐタイプではないので、ランニングコストをできるだけ抑えないといけないなって改めて思った。無駄なところは削って自分が楽しい、面白いと思うところにお金を使おうと思う。あと、お金がもう少し溜まったら株とかやってみたいなあ。

 

サバサバに救われる

女性って恋人と別れたあとは一時的に落ち込んでも数ヶ月したらさっぱり忘れるらしい。これはけっこう色んな人が言っているし、僕の観測からもそうだと思う。それって救いだよなあという話です。

「女は上書き保存、男は名前を付けて保存」ってどっかで聞いたことがありますが、なかなか秀逸なたとえですね。上書き保存どころかデータの中身を消してしまってるんじゃないかというほど元気になっちゃう女性をみるとすごいなって思います(僕はそんな風にはなれないなー)。男は名前を付けて保存して、場合によってはデータをきれいに加工までして更新してたりして、そのきれいな思い出で幻想をみて元カノに「より戻そうよ」とか真面目な顔して頼み込むわけです。スタンダール的にいうと第一の結晶作用がかなり進んでしまっている状態です。仮に女性も男と同じくらい名前を付けて保存する傾向が強かった場合、二人して幻想を見ながらよりを戻すことになって、でもいざ戻ってみたら結局現実が見えてきて嫌になって別れる、こんな悲劇が今の世界よりももっと増えているのではないかなと。もちろんいろんな人がいるので断言はできませんが、実際は女の人って結構サバサバしているので、もう前付き合っていた男なんて完全に過去のこととして割り切っていて「いまさら何なの?」的な反応になることが多い。悲劇は絶えないけど、それでもまだ救われている方なのだなあ、世の中うまくできてるなあと思いました。

論文取り下げ!

昨年の春に投稿していた論文、提案した手法を改善できる目処が立たないので取り下げることになりました。最初に投稿したのが昨年の4月なので、もう投稿してから一年経つのですね。早いものです。8月に査読がMajor Revisionで返ってきて、9月に追加実験をしたのですが、よくわからないデータが出て、提案した手法はそのままでは使えなさそうだということになりました。教授と一緒にいろいろ考えながら手をつくしたのですが、どうやっても整合性がとれずに半年が過ぎました。諦めていたところに編集者の方から催促メールが来たので論文を取り下げることにしました。もうお手上げ状態でこれに時間割くのはやめたほうがいいと思ってるので、もしかしたらお蔵入りになるかもしれません。この論文のあとにもうひとつ投稿したい論文を控えているのですが、それもお蔵入りかもしれません。

 エディタに取り下げのメールを書いたあと、今までの努力が無駄になったとちょっと落ち込んでいたのですが、よくよく考えてみると、なんかそれは違うんじゃないかと思うようになりました。論文の形にはならなかったけれど、僕が学べたことはいくつかあるからです。新手法の検証の手順、シミュレーションの発想、など研究の進め方についてとても勉強になったと思っています。論文本文も、教授に直してもらいながらですが最初から最後まで書きました。それって以後の研究に絶対役に立つじゃないですか?あと、たとえ研究の過程で新しい能力が得られなくても、少なくとも研究活動で何かしらのことはわかったはずで、無駄なんてことはないのでは、と思います。

 でもさすがに、こんなことを何年も何年も続けていてはいけないんですよね。成長したのはわかったから、いつその能力を還元するんだよ!っていう。そうやって言い訳してずーっと論文書いてない先生、何人か見てきましたし*。研究を続ける限り、結果を出して論文は書かなければいけません。それに少なくとも僕は学位を取るために論文という形で結果を残さないといけないわけで。ベストを尽くして研究を進めて論文も書かないといけないが、それが叶わなかったからといって何もかもが無駄なわけじゃない、というのが僕の考えです。

 

*そういえば理学部にはこういう先生いないんですよね(といっても理学部に来てからあまり他の先生と話してないのですが)。理学部ではない、少し産業に近い学部にはこういう先生がたくさんいました。

日常の彩り

自宅での引きこもり生活が始まってはや一ヶ月になろうとしています。相変わらず、こういう生活は僕にはそんなに苦ではないみたいです、というかやること山積みなので家にいようが大学にいようが切羽詰まった状況には変わりないっていうのが本当のところなんですけど。朝起きてPCに向かって文章を書いたり論文を読み調べ物をして、昼になったらジョギングして昼飯食べて、少し昼寝し、また研究活動をしている間に夜になる。ざっくり書くとこんな生活です。時間がすぎるのが速いし単調といえば単調かもしれない。ただ最近、この生活にちょっと楽しい出来事が起こっています。

 石川武蔵さんという、プロのピアニストの方がYouTubeでピアノのライブ配信をしているのを3週間ほど前に見つけてから、ほぼ毎日視聴しています。自宅のピアノ室にカメラと録音用マイクを置いたお手製のシステムで演奏を聞かせてくれます。ドビュッシーラヴェルなど、フランスの作曲家の曲を得意としているようで、バッハやモーツァルトベートーヴェンなどのいわゆる多くの人が想像するクラシックの音とは少し異なる、独特な響きを持った曲が多いです。

 当たり前ですが、生配信の魅力はそのライブ感です。僕が思うここでのライブ感は、同じ空間の音を直接聞けない代わりに映像を見て音楽を聞くことで、「今この音楽を共有している」という想像で出てくるものです(実際は数秒ほど差があるみたいですけど)。このライブ感があると、僕みたいに普段ほとんど「ながら聞き」しかしない人でもちゃんと音楽を聞くことに注意を向けるようになります。すると、今までながら聞きではわからなかった曲のよさがその場で何となく掴めるようになります。以前聞いて楽しめなかった曲でも、初めて聞く曲でも、すんなりと曲の中に入っていけるというか。特に、僕にとってフランスの作曲家の曲は全体的にふわふわとつかみどころがなく苦手に感じていたのですが、今ではそういう意識はあまりしなくなりました。僕は演奏の良し悪しはあまりわからないのですが、曲のよさに気づけるっていうのは彼の演奏の魅力に起因するのかもしれないなと思っています。

 曲の演奏間にしてくださるトークも、とても興味深いものがあります。僕の周りには音楽を生業にしている人はいませんから、ピアニストがどんなことを考えて弾いているのか、といったことは今まであまり知ることができなかったのですが、ライブ配信ではそういうことを少しずつ話してくれますし、気になっていることがあったらテキストでコメントすることもできます。ピアノのリサイタルでも曲の合間にピアニストがマイクを持って曲に対する想いなどを語ってくれますが、時間がかなり限られていますし、その場で質問・コメントなどはできません。そういう意味ではオンラインのライブの一番の利点はここにあるのかもしれません。おそらく彼もそういうのを意識しているはずです。デメリットとしては、YouTubeに上がっているほかの録音された演奏動画に比べるとどうしても音質が落ちるところでしょうか。まあ、こればかりは仕方ないです。とはいえ聞いていればあまり気にならないし、むしろ僕はこっちのほうが手作りな感じがしていい気がします。

 これから5Gが普及したら、例えば高音質のデータと映像をライブで遅延なしで配信できるようになるのでしょうか。コンサートの形もこれから変わっていくのかもしれませんね。もちろん従来の形がなくなることはないと思いますが。そんなことを思いました。

最後に、YouTubeのページとHPを貼っておきます。

2020/05/10現在、ほぼ毎日19:30からやってくださっています。おすすめです。

www.youtube.com

ピアニスト石川武蔵さんのホームページ:

www.musashi-ishikawa.com

在宅での研究活動

研究室にいけなくなってから、早いことに3週間ほど経った。研究室の後輩や、ツイッターでフォローしている大学院生の反応を見ていると「研究室にいけないことがつらい」という声をけっこう見かける。その中には「実験ができない」「研究室に行けないことそのものがつらい」「家にずっといると鬱々する」という声があった。僕はというと、なんかそういう感じがしないんですよね。たぶん、実験ができないというのは来年の学位取得に直接関わってくるのでかなり焦るのだけど、研究室にいけないことそれ自体はそこまで精神的に苦しいことではない。一日家にいて人と話さなくても、今はインターネットで友人とチャットもたまに通話もできる。むしろ、今の状況になってむしろ以前よりも改善されたことがある。指導教員とのコミュニケーションだ。以前は、どうしても教員とのコミュニケーションが不足しがちだった。僕は親しくない人と話すと緊張してしまうので、教員はいつでもウェルカムなのだが僕は自分からあまり話しかけずにいた。数十分間話すだけでその晩の睡眠時間が1時間増えてしまうほど疲れてしまうのだ。それが、新型ウイルスの影響で研究室でのディスカッションにslackが積極的に活用されることになると、対面ではなく文字ベースのやりとりになって、以前よりも少しコミュニケーションが増えた気がする笑。とはいえ、今の状況だと実験・観測もしにくいし、本当に早く終わってほしいんですけどね・・。今博士課程にいて実験止まっている大学院生ってどうなるんでしょうか。学士と修士とは違って博士はまとまった結果出てないと認めてもらえないから「結果出てないから留年ね、あと一年授業料(53万)払ってね。運が悪かったね。でもこのご時世みんなそうだから仕方ないね。」ってなるんだろうか。めっちゃ怖い。

やっとたどり着いた

一年ほど前、論文を読んでいたら「フレネルの式」という数式が出てきた。光の反射を記述した数式だということは論文に書いてあったのだが、数式の中身を見てもまったくイメージが掴めない。それまでは、わからない式が出てきても論文中の説明を丁寧に読んで考えたりネットや本で調べればなんとかなっていたのだが、今回は違った。フレネルの式について調べると、光の電磁波としての性質からそのような形になり、そしてそれは電気と磁気に関する4つの基礎方程式から導かれるということらしい。僕は大学の電磁気学はやったことがなかったから、当然そんな方程式を見てもなにもわからなかった。まあ正直、どうしても理解しなければいけない論文でもなかったので、数式を鵜呑みにして進んでもよかったのだが、それはなんかちょっと気持ち悪い感じがしたし、ちゃんと勉強したほうがいいなあーと前々から思っていたので、この際大学レベルの電磁気学を一から勉強してみることにした。

 学部一年生が最初に使うレベルの教科書(岩波書店の物理入門コース)を買ってきて、読み始めてみた。初級レベルとはいえ大学の物理となるとそこそこ高度な数学を使うので途中何度かつまづいたし、研究の方が忙しくなり勉強が中断してそのつど内容を忘れてやり直したりした。で、そんなこんなでようやく先月マクスウェル方程式に、先週フレネルの式にたどりついた。

以下、やってみた感想。

  • 「やってみれば案外できるもんだなあ!」。初級の教科書を買ったから説明は丁寧で、特に数学(主にベクトル解析)は別の教科書を買って勉強しなくても教科書中の説明で十分理解できた。こういう、ぱっと見とか印象で自分ができないと先入観を持っていることってけっこう多くて、プログラミングとか、国際学会で発表するとか、やってみればそんなに大したことない。毎日少しずつ進めていけばできるもんだ。
  • 「大学の物理ってすげえ!」。僕は高校のころ(現役のとき物理学科を受験したくらいには)物理が好きだったのだけど、高校の物理とは扱っている現象が同じだけで、奥深さが全く違う。高校物理の電磁気って、この現象はこの式で表せて、別のこの現象はこの式で・・という感じでトピック的に学習していくのだけど、大学の電磁気はその式の数を最小限に絞り込んでいく。そしてその方程式から、高校では電磁気とは別の単元だった光・波動の式さえも導き出せてしまうのだ。最初はクーロンの法則の話をしていたのに、こんなところまで話が深まるんだなって思った。

もちろん、まだまだ初級の教科書を一通り終わらせただけなので、理解が不十分なところもたくさんある。これからもちゃんと勉強します。

間に合うのか?

半年前に査読から返ってきた論文の追加観測と、そのデータを含めた方法論の修正をしようとしているのだけれど、全くうまくいかない。この数ヶ月、試行錯誤してシミュレーションとかいろいろ頑張ったけど、どうにもならず。この論文は観測方法の提案が目的なのだが、うまくいかないとなれば、当然論文になんてならない。卒業には投稿論文の掲載受理が必要で、これの結果で卒業要件を満たすつもりでいたから、状況としてはかなりよくない。査読にまでこぎつけた研究がボツになってしまったとすれば、今やってる実験で結果をだして、昨年やった観測の解析をして、さらに今年もうひとつ実験なり観測なりをやって(現状何もきまってない)D論に載せられるクオリティにして、やっとこれでギリギリ3章分。正直厳しい。そんなに要領よくできる気がしない。ていうかなんでみんな普通に3年で学位がとれるんだよ?

そんな事情があるのでかなり急がないといけないのに、実験のほうは進行がかなりゆっくりになってしまってる。前にやった実験を多少条件を変えてもう一回するだけなのに、いろいろな問題がでてきて、ひとつひとつ対処しているうちにどんどん時間が過ぎていく。気づいたらここ一月くらいまともにデータが取れていない。

こんななので、普通に一年後にも学位が取れてない可能性が十分でてきた。ちょっと、さすがに身の振り方を考えないといけないなと思うのだけど、ここまでやってきたのに、とも思う。2年前の秋はこんなくだらない研究やめようと思っていたのに、今となっては学位をとらないと気持ち悪いと感じるようになってしまった。学位をとるために研究しているわけじゃないのだが、だってこんな状況で仕方ないじゃないか、と自分にいいかせているのがちょっと不甲斐ないね。

感情と理屈

この前、とあるYouTuberが面白い話をしていたのでメモ。

 読解力のない層は必ずいる。それはある世代に多いものかもしれないし、すべての世代に一定の割合で存在するのかもしれない。読解力がないと、まとまった理屈を理解できない。そのときの感情でしか物事を考えられない(ここでは「感情派」と呼ぶ)。感情派の彼らは「これがこうだからこうなるあるいはこうするべき、一方でこういう側面もある」みたいな論理の展開についていくことができない。一方でまとまった理屈を理解し、やりとりできる読解力のある層もある(ここでは「論理派」と呼ぶ)。

 10年ほど前まではインターネットも今ほどは発達してなかった。2ちゃんねるやツイッタを利用するのはマニアで、読解力のある層がほとんどだった。だが、PCとスマホを誰もが持つような時代になり、顔文字やスタンプなどができ誰もが利用しやすい環境が整えられると、読解力のない感情派の人々もそれらを利用するようになった。かつてはある程度分断されていた層の人達が同じネット空間に共存するようになったのだ。

 両者はお互いを理解できない。特に、政治・経済や倫理など、理屈っぽい話になると、両者の差が浮き彫りになる。ここで面白いのは、論理派の人からすると、その理解に関する壁、つまり感情派の人が理屈を理解できていないこと、あるいは理解していないまま何らかの主張をしていることは論理派の人からすると理解できるのだが、感情派の人からするとそれの何が誤りなのか理解できないのだ(そしてしばしば炎上する)。つまり論理派から見えている「理解の壁」が感情派の人たちには見えない。

 一方で、その逆もある。感情派の人たちはその時々の感情や感覚を大事にするし、それで行動が決まることが多い。論理派の人はそれが理解できない(これは僕の想像だけど、論理派の人もロボットではないからそういう瞬間は絶対にあるけど、その自分の感情を他人の行動を読むのに使えていないケースが多いのだろうと思う)。感情派の人はその時の感情で動くことが多いのだから、傍からみていくら非合理的な行動をしていても、当の本人の中では理屈がちゃんと通っており、合理的なのだ。雨が降っているならば傘を差すのが(少なくとも日本では)合理的だが、それでも傘を差さない人にはその人の中での理由があり、理屈がある。こういうことがわからない論理派の人からすると、感情派の人の言動は非合理的で不可解に映ってしまい、なにか壁があるように感じるのだろう。論理派の人はこれを「バカの壁」と呼んでしまう。正確には、彼らが他人の中の感情に鈍感なだけなのに。(個人名は出さないが、某実業家などはまさにこれに当てはまる。的確で的を得ている発言も多いけど、個人のなかの感情に全く興味がないのか、身も蓋もない主張になってしまっていることも多々ある。)

 この分断がかなりわかりやすい形で現れているのが、「意見の否定と人格の否定は違います」という主張である。いくら論理派の人がそう言ったって、自分が考えた意見を真っ向から否定されてると傷つくでしょ?っていうのは至極まっとうな感覚だと(感情派の僕は)思う。もちろん、いちいち傷ついていたら建設的な議論なんてできないし、割り切らなければいけないことはわかっている。だけどだからといって、「意見の否定と〜」をさも当たり前かのように他人に押し付けるのはちょっと横柄というか、優しくないなあと思うわけです。要するにそれを当然視しないでねってこと。

自分のなかの感情と論理、コントロールできるようになれば最強だよね。

僕の好きな人たち

今日は、僕がどんな人を好きか書いてみようと思います。次の項目にひとつでも当てはまっている人は、ほとんど無条件で好きです。 だから何って話ですが、まあそう言わずに最後までお付き合いください笑

生物系のLaTeXユーザー

生物系の分野は、論文で数式を書くことが少ないから、Word派が圧倒的多数(というかみんなそもそもLaTeXを知らない笑)です。LaTeXってWordに比べてインストールやらなんやらで敷居が高いうえに、Wordの方も便利な機能が多数搭載されているので、生物系でLaTeXを使うメリットってほとんどないんじゃないかと思えるほどです(無料なところくらい?)。そんな条件を乗り越えてでも論文を美しく仕上げたいという姿勢に共感を覚えます。ちなみに、この項目に当てはまる人は今まで僕の周りに一人もいません。

ノリのいいツッコミ役

ツッコミに必要不可欠なのは瞬発力。なので、僕にはツッコミの能力がまったくありません。ただボケるしかないわけで、ツッコミ役は僕にとってありがたい存在です。両方ボケで、かぶっていてもいいっちゃいいんですが、ツッコミがあったほうが会話の面白さは段違いです。あと、ノリが良いことはそれだけで価値があります。

B型の人

血液型性格診断ではほとんど褒められるところのないB型ですが、僕が好きになるのはB型の人が多いです。高校生のころ血液型性格診断がかなり流行っていて、A型とB型の相性は悪い、とテレビで言われていましたが「僕はB型の人ともうまくやっていけるA型なんだ!」と思っていました。血液型の性格診断なんて根拠ないじゃんって言う人いますけど、根拠なくても僕の直観と当たってるし、なにより面白いから僕はけっこう使います(すみません、この項目だけ十分条件ではありません)。

僕のことをいじれる人

僕って自分のこと「僕」って呼んじゃってるし、真面目そうな顔してるので、なかなかにいじりにくいよなーと思うんですが、それでも上からいじってやろうとしてくる勇気のある人のことは、それだけでめちゃくちゃ好感を持ちます。いじられキャラの人って、本人が何もしてなくても勝手に周りが面白いところ見出して笑いに変えてくれるじゃないですか。めちゃくちゃオイシイポジションです。なので、僕に苦労させずにいじってちゃんとした笑いに変えてくれるととても喜びます。あ、ちなみにこれ、B型の人に多いです笑

圧倒的に好きなことを持っている女

何でもいいですが、これが好きでたまらない!という人の話を聞くのが好きです。僕がそのレベルで好きなことがない人間なので、憧れかもしれません。あと、好きなものについてよどみなく語れちゃう人よりも、口下手で、ぽつぽつと、しかし確実に想いがこちらにしんと伝わってくるような語り口の人のほうが僕は好きです。なぜ女なのかというと、男はすぐに知識自慢を始めてしまうからです。
(つい昨日、富野喜幸氏のインタビューをたまたまYouTubeでみたのですが、1stガンダムの放送を見てアフレコスタジオにやってきたガンダムの一番最初のファンは全員女性で、男は一人もいなかったそうです。彼女らはかっこいいモビルスーツ同士の戦いよりもホワイトベース内の隊員たちの家族感に惹かれたようで、それは監督がガンダムという物語を作る上で最も重視していた人間関係そのものだったんですね。やっぱりこういう感性については女性のほうが鋭いのかもなあと思いました。)

楽器をやってる人

楽器を演奏するのって、かなり地道な努力が必要です。一日サボったら取り戻すのに三日かかる、なんて言われる世界です。特に、遊び盛りの小・中学生のころからずっと(多少の中断はあったとしても)、あの単調で心を折られそうになる楽器の練習を毎日継続できる忍耐力は本当に賞賛に値します。最後に音楽ついでに言っておくと、歌うことが好きな人も好感度高いです。

2019年と2020年

2020が始まりました。今年もよろしくおねがいします。

 昨年はどういう年だったかというと、少しずつ自分を許せるようになった年だと思います。過去の自分の失敗が許せず、今さらどうしようもない過去についてしつこく考えている自分も嫌でした。でも、2019の後半から考えているうちに何が悪かったのか、わかってきました。今までは自分が感情・欲求ベースで感じすぎていて、冷静に論理で考えようとする姿勢が欠けていたんだとわかりました。最後にそれを高校時代からの友人に話して、かなりすっきりしました。たぶん、その結論に達するまでに自分のなかで言葉にはできないいろいろな変化があったのだと思います。そして最終的には時間が解決してくれましたが、日々の忙しさの中に流していくのではなく、ちゃんと自分の中で消化できた感じがしています。それにともなって、自分を見る解像度が少し上がった気がします。具体的にいうと「過去の自分が許せない」という漠然とした感情ではなくて、「どういうところが許せなかったのか」を言葉にして説明する能力が以前よりも上がったということです。外から見たらわからないでしょうが、自分のなかでは着実に良くなっています。

 研究に関しては昨年も大した進展はありませんでした。今まで好き勝手(もちろん先生のいうことも聞きながらです)やってきたのですが何もものにならなかったので、自分の実力を試すのもいい加減にやめなければ行けないかなと思いました。できるだけ先生に頼らないで、と思いながらやってきましたが、別に頼っていいじゃんと最近思い始めました。最終的に課題解決を前進させられるなら誰がやったかとかどうでもよくないか?って。2020は結果を残すことを最優先にしていこうと思います。てか、もはや状況的にそうするしかないわけですが笑。今年(今年度)は、結果を残して学位をつかみ取りたいと思います。