ルビスコくんの日記

博士学生の日記です。考えたこと、学んだことを書きます。

眠れない。

ここ2,3ヶ月、眠れない夜が多くなってきた。

別れた人のことを際限なく思い出してしまう。

日中は、なるべく考えないようにして、研究室では目の前のことに集中しようとしている(でもあまりできない)し、それ以外の時間もできるだけ他のことに気をそらそうとすることが多くなった。

一番の問題が布団に入ったあとだ。なにか別のことをしていると寝れないし、かといって電気を消して布団にもぐりこんだら、すぐさま思い出が洪水のように押し寄せてきて、喪失感やら、後悔やら、その反対にこれは仕方なかったんだという慰めの気持ちやらでいっぱいになる。

それがつらいから布団のなかでもYouTubeで動画を見たりしていると、目が冴えてきて夜中の2時3時まで起きてしまう。

そうなると朝起きられない。

毎日毎日過去のことを思い出していると、なんだか日常に現実感がなくなってきた。

この前音楽を聞いていると、aikoが「毎日が昨日のよう」って歌ってて、本当にそんなことってあるんだあ〜と身にしみた。aikoってすごい。今でも人々がaikoの歌を求めている理由がわかった気がする。

とはいえ、どうにもならないのも、いつまでも後ろを向いてもいられないのもわかっている。

学位審査まであと1年を切った。

なんとかせねば。。

札幌に帰りたい。

札幌に帰りたい。こんなことを思ってもしょうがないのだけれど。どうも今の場所の気候が自分にあっていない、というか札幌が僕にとって快適すぎたのだ。

札幌は最高だった。不快な季節はといえば道路の氷が溶けて道が水たまりだらけになる3月~4月の一ヶ月弱くらい。一軒家を持たなければマンションの管理人が雪かきをしてくれるから、雪かきの苦労をする必要もない。

冬は寒いけど、僕はもともと寒さに強いほうだし、何より建物がちゃんと防寒対策(二重窓やセントラルヒーティングなど)バッチリだから全然寒くない。

夏は湿度が低いせいで、30℃を超えても全然不快ではない。ちょっと木陰に入るとカラッとした涼しい風が吹いて熱を冷ましてくれる。

そしてなにより花粉がない。北海道にずっと住んでる人だったらシラカバ花粉で花粉症になる人がいるけど、憎き本州のスギに比べると生えている密度が違うから症状も軽い。本州に住んでいるとこれからの季節が本当に憂鬱になる(しかも今年は例年の2,3倍?殺す気ですか?)。

食べ物も美味しい。空が広い。道路も広い(冬は狭くなるけど)。人はのんびりしてて優しい。女の子は可愛い。街と自然の距離が近い。

それに比べて今の場所は…。ちょっと北にあるせいで中途半端に寒いし、寒さが中途半端なせいで建物に断熱の工夫をするという発想がない。東京と同じものを建てましたって感じ。まあ、これ以上は言うまい。

それが普通の街なんだって自分を説得してるのだけど、どうしても札幌と比較してしまう。

2019年のPROMISE

去年は、この時期に2018年の抱負を立てなかったせいで、年始に掲げた目標がどれくらい達成されているか確認できないというあまり面白みのない年末になってしまったので、今年はちゃんとここに書いておこうと思います。

  • 投稿論文を書く
     めちゃくちゃ大事です。今、もうすぐ博士後期3年なのですが、科学雑誌に受理された論文は0です。最低でも1報は受理されないと博士号の学位審査に通らないので、頑張らないといけません。しかも、雑誌に投稿した論文が査読(雑誌に載せる価値のある内容かが審査される)されるのに半年かかる場合もザラなので、急がないと卒業に間に合わないということも充分ありえます。僕は急ぐのが嫌いなのでここまで先送りしてしまった。状況としてはけっこうやばい。
  • 観測をする
     博士の研究が去年はほとんど進まなかった。今年はもっと気合いを入れて、準備して、観測をして、モデルも動かして解析をします。計画を立てないといけないのだけれど、まだまだ。投稿論文も大事ですが、実際はこちらのほうが大事です。
  • 勉強をする
     これは、まあ科学をする身としては当然かな。ちなみにここでいう「勉強」には、自分の研究に関連する論文を読んだり教科書を読んだりすることだけでなく、自分の専門とはまったく異なる基礎事項の勉強も含まれています。
  • 就活
    ポスドクの職探し、がんばります。どういう分野にしようか、国内か海外か。これから考えます。下に書くことと関連するのですが、思いっきり違う分野に飛び込んでいくのもいいかなと思っています。

ここまでは、どちらかというとそこまで重要ではない(笑)、目の前の目標。一番大事なのは、

  • 慣れから脱却することを繰り返すこと
    僕はあまり変化を好まない傾向があるようで、日々の様々なことに対して、どうしても保守的になってしまいます。日々の様々なことというのは、聴く音楽や読む漫画や本、行くカフェ、通る道、作る夕食のメニュー、研究における作業など、本当に様々なことです。自分が普段慣れていることを繰り返すだけの毎日になってしまうと、自分が馬鹿になっていくような気がしてなりません。「この状況に慣れるにはどうすればいいか?どうすればこの状況を心地よくできるか?」に頭を使うことが減ってしまうからです。そうなると、どんどん時間が経つのが早く感じられるようになるだろうと思うわけです。なので、できるだけ自分が普段やっていることから逸脱することをやっていきたいです。そのたびに自分の中ではストレスになるかもしれないけれど、意識的に慣れから脱却していきたい。

2018年はどんな年だったか。

今年も残すところあと少しですので、今年一年を振り返ってみたいと思います。

なんか、9月以降が濃厚すぎて前半に何をしていたのか、あまり詳細に覚えていない。

7月くらいまでは、実験を頑張っていた。だが一連の実験の結果が出揃ったころから、自分がやっている研究について意義を見いだせなくなって、研究について何もしたくなくなった。1ヶ月弱、研究室に行かず家に籠って映画やアニメをみたり図書館とカフェに入り浸って本を読んでいた。共同研究者の先生と、ネットで知り合った親切な企業研究者の人と、指導教員が相談に乗ってくれて、ようやく立ち直ることができた。研究室の後輩やポスドクの方もアドバイスをくれて、この研究室にきて本当によかったと思った。「自分が対面している問題についてどう考えたらよいか?」ということについて実際に一番役に立ったのは企業研究者の方のメールだったのだが笑、対面で話を聞いてもらうのもかなり心情的に救われたしその中にも有効なアドバイスはあった。(これは副次的な話なのだけど、この研究室を選んだ僕は、けっこう人を見る目があるのかもしれないな、なんて思って少し自信がついた)。

9月に彼女と別れて、10月に祖父が亡くなって、そして12月に実家の愛犬も亡くなった。今年は別れの年だ、といっていい。

その一方で、今年は自分の中でどう生きたいのか、ということについてよく考えた。いったい自分が大切にしたいことは何なのか。日常のなかで、少しずつだが自分の理想が構築できてきたのを、最近感じている。まだまだこれからだけど。20代のうちには固めたい。

この間、そんな一年を振り返ってみて、涙が溢れてきた。ある海外ドラマで「一年を振り返ってみて涙も出ないなら、それは一年を無駄に過ごしたってこと」というセリフがあるのだが、その通り、この一年はとても充実していたと思う。でも、「充実する」っていうことがこんなに、寂しさと、悲しみと、希望と、不安がごちゃごちゃになった混沌とした状態も含みうるとは、思っていなかった。

最後に、今年はどういうわけかこのブログを定期的にチェックしてくださる方が出てきました(ありがとうございます)。いっとき、それが少し嬉しくて頑張って書こうとしていたのですが、今振り返ってみると書くために書いていたようなところがあったように思います。来年はそういうことはせずに、ゆっくり考えて文章を書くように努めます。

いろんなことが、うまくいきそうな予感。

この数ヶ月、いろんなことがあった。祖父が亡くなって、彼女と別れて。気になっていた女性に声をかけたけど見向きもされなかった。でも、なんだか今、気持ちがとても充実している。僕がこれから歩もうとしている道は厳しいけれど、それでも案外頑張れるんじゃないか、そう思えるようになってきた。全然根拠はないけど。

十年前、高校2年の僕は、十年後の自分はとりあえずどっかの大学に行ってどっかの会社に入るか公務員になるかして働いてるんだろうとぼんやりと考えていた。でも実際は全然違った。そんな、旧世代的なつまらない価値観からはとりあえず脱することができた。

 そういえば、十年前僕はクラシック音楽が大好きで毎日聴いていたのだけど、どういう演奏がいいのか、よくわからなかった。だいたいCDなんて一流のプロの演奏家が演奏するものなのに、どうやって良し悪しとか好き嫌いを判断すればいいんだよって感じで。いくら聴いてもわからなくて、でもわかっていない自分が嫌でとりあえず本に書いてあった通りに「カラヤンの音楽は薄っぺらい」なんて嘯いていた。でも、最近また十年前と同じくらい聴くようになったら、いつの間にか自分の好みができていた。ああ、なんだこんなもんだったんか。なんて。大体自分の好みも把握できつつある。あの頃はいろいろなもので自分を縛り付けていたんだな。音楽の聴き方一つとってもちょっと変わった。

毎日が楽しいか?というと、少し違う気がする。これから、自分のなかのいろんなことが、少しだけれど変わりそうな予感。思っていたよりももっと自由に生きていけるんじゃないか、そういう期待が胸の中に少しずつ湧き出してきてる。

僕は心配性なので、「それで大丈夫なの?本当なの?」と自分に問いかけても、あまりちゃんと説得できないのだけど、「とりあえず大丈夫!」って答えてる。

 


スピッツ / ルキンフォー

 

最近の僕の時間管理法

数ヶ月前から、僕が続けている時間管理法を紹介します。簡潔にいうと、Togglでタスク管理しながら、ポモドーロ法で時間を区切っています。

ポモドーロ法とは、休憩する時間と集中する時間を完全に区切りメリハリをつけて集中する方法のことです。僕の場合、30分作業をして5分休憩、そしてまた30分のち休憩、これを繰り返します(普通は25分と5分らしいです)。時間が来たら、途中でもできるだけすぐ作業を中断します。ちょっと困ったことは、休憩の時間が5分と決まっているのにそこでだらっと時間を延ばしてしまうことがよくあることです。5分って短いですよね。

 これだけだと、自分が普段何の作業にどれくらい時間を割いているのか把握できません。そこで、Togglで時間+タスク管理をしています。Togglにはストップウォッチ機能がついていて、タスクをしている時間を測ることができます。それだけでなく、何の作業をしたか、それはどんな種類の仕事かをタグ付けすることができます。このタグ付け、普通に「XXの研究テーマ」とか「OOの実験」などのようにつけてもいいのですが、それはあまり役に立ちません。なぜなら研究には期間ごとにフェイズというものがあって、冬と春には論文を書く夏の観測計画を立てる、夏には観測の準備と実行に時間を多くなど、やることが期間によって異なるからです。それぞれの期間ごとに最優先事項とその次に大事なタスク、そしてそれより重要でないタスク・・・があって、それを記録するだけではあまり自己分析には向きません。優先順位の一番高いことをするのは当たり前で、「喫緊の課題ではないけれど自分がしたいと思っていること」をどれだけできているかが重要なのだと思います。だから「XXの研究」などではなく、A, B, C, Dで分類します。

 Aは喫緊の最優先事項。学会の要旨作成だとか、締切のせまった論文の執筆とか、実験のセットアップとか。Bは重要であるが緊急ではないタスクです。数学・物理・統計の勉強やシミュレーションモデル、植物学についての勉強は今のところ緊急ではないですが、続けていきたい事項であります。Cは重要ではないが緊急のタスクです。飲み会の幹事の仕事など、その時々に自分に降り掛かってくる雑用です。Dは重要でもないし緊急でもないもの。といっても、そんなのたぶんないんじゃないかなあと思います。自分が進んでやろうと思ったことはBに入るし、重要でもないことは緊急でもない限りやらないのではないでしょうか。

 重要なのは、上でも触れたようにA, B, C, DのうちBにどれだけ時間を割けているかです。Aはやって当たり前。Bは自分への投資ですから、どれだけ成長できるかはBのエフォートにかかっているのではないかと思います。そしてどうでもいいCをどれだけ効率よく終わらせられるか。おそらく、学生の身分ではなく働き始めるとCの割合がどんどん大きくなると思います。今の大学の教員を見てるとわかるのですが、研究と教育以外の業務がとても多い。研究予算を獲得するための申請書や、どうでもいい会議に教員たちの貴重な頭脳が使われて疲弊してしまっているように思います。だから、これからCの領域が増えることを見越して、自分のしたいB領域にちゃんと時間を時間を割きたいです。そのための確認としてタイマーの機能がついているTogglを使っています。

(ちなみにこの分類法はTogglを紹介していたどっかのブログで見たものなので僕のオリジナルじゃありません。どこで見たのかも忘れました。)

忙しさに負けるな

 8月ごろ、僕は暇だった。というより、研究のことこれからのことでいろいろ思い悩んで、研究を数週間ストップして本を読んだり映画を観たりしてだらだら過ごすことにした。そこから研究室に復帰して、リハビリも兼ねてほとんど九時五時で研究をすることにした。そのころは、ブログもそこそこ更新していたし毎日日記を書いて、人生の様々なことについて考えるようにしていた。正直、はたから見たら何の生産性もないただの意識低い博士学生だっただろうけど、その頃にダラダラ過ごしたおかげで前向きになることができた。ブログをできるだけ週に数回更新しようとし始めたのもそのころだった。

 が、最近は少し忙しくなってきた。そろそろ研究にも論文書きにももっと入れ込まないと再来年の卒業に間に合わないし、直近のワークコースのために勉強しなければいけないことがたくさんできた。その途端、ブログの更新が今週は途絶えてしまった・・。さあ書くぞとPCの画面に向かっても書きたいことがあまり湧いてこないのだ。別に僕のブログなんて、この世にあってもなくたってだーれも困らないほどのことしか書いていないのだけれど、自分のなかで考えた稚拙な思考を形にするための、訓練の場所なのだ。自分にとってはそこそこ大切なものとして続けていきたいと、特に最近は思っている。だから数日だけ書かないでいてしまっただけでも、僕にとってはなんだかムズムズする感じだった。

 書けないことがなんだかちょっともどかしい、というこの状態はいいものなのかもしれない。書くことが習慣化できた証だ。内容の薄さと青臭さと表現の稚拙さはさておき、何はなくとも1000字以上の長文を書き上げることに対する抵抗感はずいぶんとなくなった。一年前の記事を読んで確認したのだが、「確実に、一年前よりも文章を書く力は上がっている」と言い切ることができる。

 だいたい、書くことを考えながら書くので一記事に一時間位かかる。毎日あるいは2日に一回、一時間くらいなら、続けることはやろうと思えばできるけど、そんなに書くネタを出し続けられるかどうか。「そんなに書いてどうするの」って言われそうだけど、僕は、自分の意見を作りたいんだよ。なにか聞かれてその場で自分の意見を構築するなんてだいたいできないから、僕はここで好きなものや嫌いなもの、こうあるべきだという主張について、整理して考えている。忙しくても、そういう諸々のことについて考える時間は毎日きちんと取るべきだと思う。

忙しさに負けるな。

植物の葉はなぜ緑色なのか?

とあるテレビ番組で、「葉っぱはなぜ緑色なの?」という疑問が取り上げられたらしいです。で、その答えが「葉っぱは赤と青が好きだから」だったと。以下、番組の説明の要約。

「私達が普段見ているものの色は、対象の物質が反射した光の色です。物質の表面に光が当たって、ある色の光は物質に吸収され、またある色の光は吸収されずに表面で反射されます。その表面で反射され(吸収されなかった)光が人間の眼に入って色として認識されるわけです(ちなみに物質が可視光域のあらゆる色の光を吸収すると私達には黒色に見えます)。植物の葉は、太陽光に含まれている赤と青の光を強く吸収して緑を反射する、だから緑に見えます」というのが番組の説明だったようです。ただ、この説明はちょっと、説明がかなり足りていないというか、誤解を招く恐れがあるように思います。

 なぜなら、植物の葉はちゃんと緑色の光も吸収して光合成を行っているからです。実際、(紅葉や黄葉でない)緑葉の波長ごとの光の反射率を見てみると、10%程度しかありません。透過率も10%ほどですから、緑の光は80%くらい吸収されていることがわかります。一方、赤と青は葉に当たった光は9割以上吸収されます。よって、相対的に緑が強くなるために、葉は緑に見えるわけです。それだけではなく、人間の眼はどんな光の色にも均等に感度があるわけではなく、緑色が最も強く見えるようになってることも、人間の眼に葉が緑色に見えることの原因であります。

クラシック音楽を聴こう

僕には常日頃不思議に思っていることがある。それは「どうしてみんなクラシック音楽を聴かないのだろう」というものだ*1。もちろん、いくつか曲を聴いてみて趣味が合わなかったという人もいるだろうけど、多くの場合聴かず嫌いなんじゃないかと勝手に想像している。他人の反応を見ている限り、どうやらみんな、クラシック音楽のことを退屈なものと思っているらしい。世の中にはクラシック音楽の他にも楽しいことは山ほどあるから、聴かないならそれはそれでいいのだけれど、傲慢なことに僕は聴かなきゃ損だろと思っているので、クラシックは聴かないけど、ほんのちょっとなら聴いてもいいかも?という人たちのために、まずは「なぜ退屈と思われているのか」から考えたいと思う。

なぜクラシックは"退屈"なのか?

 クラシックといえば、タキシードを着た地味〜おじさんが指揮するオーケストラが眠たくなるようなメロディーを奏でてるのを想像する人も多い。

「私、友達がコーラスで出るっていうからクラシックのコンサートに行ったんだけど、すぐ寝ちゃってさ〜」

これからの季節、こんな話をする人が全国で急増するだろう。年末はなぜか知らないが全国のオケが第九(ベートーヴェンの第九交響曲のこと)をこぞって演奏することになっている。第九にはコーラス(合唱)がついていて、趣味で合唱をする人はそこに駆り出されることがあるのだ。第九といえば誰もが知っているあのメロディー(ミミファソソファミレ♪)有名だが、冒頭ではまったく出てこない。第1楽章はいきなりティンパニーが大暴れ、ドコドコー!と始まる。聴いたこともないメロディー。第2楽章になっても第3楽章になってもあのメロディーは出てこない。たとえ第2楽章まで持ちこたえても、第3楽章になるとすごーくゆったりとした曲調になって、だいたいここで眠りに落ちる。目を覚ますと第4楽章。おなじみの旋律で大いにに盛り上がり、終演。終わりよければすべてよしで帰路につく。

 もったいないなあと思う。なぜ第4楽章だけでなく1~3楽章も楽しめない人が多いのか。よくクラシック入門書には「それは形式を知らないからだ、一つの楽章にはソナタ形式という演奏の形式があって〜」みたいな話になるのだが、それはちょっとずれている。つまり、そんな知識よりも「聴いたことがない」という状態が退屈の一番の原因なのだ。クラシックに限らず、まったく知らないロックバンドのライブに行って楽しめるだろうか?大概の人は聴いたこともない曲ばかり演奏されても退屈してしまうだろう。

退屈でなくするには

 だから、クラシック音楽にほんの少しでも興味があるなら、事前に聴けばいいのだ。部屋の中で、洗い物やアイロン掛けの間にスマホで聴けばいい。何回か再生しているうちに、曲がどういうものかわかってくる。どこのフレーズがかっこいいとか、だんだん理解できるようになるはずだ。これは馴染みのあるポップスとかロックでも聞き方は同じで、みんな経験があると思う。異なるのは、大概歌詞がないのと、一曲(あるいは一つの楽章)の長さが長い、くらい。ポップスなどのアルバムはだいたい一枚4,50分で、クラシックの場合はひとつの交響曲で40分くらい(ただし作曲家などによって結構幅はある)。だからポップスのアルバム1枚だと思って聴けばいい。あるいは、上に第九の例を挙げといてなんだが、最初は演奏時間の長い交響曲よりもピアノ曲ショパンとかリストとか)の方が良いと思う。ショパンやリストの曲は聴いたことのあるものが多いし、旋律がとにかく美しいからすぐに好きになれる。

 クラシック音楽は、昔に比べて確実に身近になったと感じている。僕が高校生の頃は、インターネットは一応あるにはあったが今みたいに発達はしていなかった。僕はどうしていたかというと、NHKのFM放送か地上波の番組(N響アワーズ)、NHKBS放送で昼の時間にやっている室内楽コンサートを録音or録画したり、CDを買ったり、ツタヤで借りたりしていた。つまり、昔は自分から行動しないと手に入らなかったのだ。あまり興味のない人がわざわざ自分から馴染みのない音楽を聴くとはあまり思えない。でも今は違う。スマホ(もはやパソコンすらいらない!)でYouTubeのサイトに行って'Beethoven'と検索をかけるだけで山のように演奏音源が出てくる。それも中には世界の一流演奏家の演奏もたくさんある。AmazonPrime会員なら会員特典でAmazonMusicがついていてそちらもかなりの数の音源がある。本当にいい時代になった*2。『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』などクラシック音楽を扱った漫画があるが、ああいうものを入り口にしてもいいと思う。上述の通り、作中で登場人物たちが演奏した曲は今はすぐに聴くことができる。ちょっと気になったら聴いてみたらいい。これだけ敷居が低く、しかも楽しいものに、とりあえず試さない手はないと思うのだが。

 

追記。ちなみに僕はクラシックヲタではありません。純粋にいろんな作曲家の音楽を聴くだけです。最近ようやく演奏家について好みが出てきましたので、その程度です。

*1僕がクラシックをよく聴くと言うと「あーやっぱりー(マジメでおカタそうだもんねー)」みたいな反応(そこまで露骨じゃなくても)をする人(なぜか女性に多い)はマジで嫌いです笑。

*2音楽を売る側からしたらどうなのかはわからないが、クラシック音楽の敷居は確実に低くなったので、クラシックを聴く母数は増えているんじゃないだろうか。

僕の境遇とこれからについて。

僕がこれまで歩んできた道は、とてもありふれたものだった。父は会社員、母は専業主婦で、僕が生まれたときからずっと「失われた20年」と呼ばれる長い不況が続いていたわけだが、そんなニュースは子供の頃からほとんど気にしたことがなかった。そのぶん父が頑張ってくれていたのだ。おかげで、僕は中学受験をして私立の中高一貫進学校に入ることができた。中学高校では特に目立たなかったが、友達は数少ないながらいた。いじめられた経験もない。第一志望の大学には二年連続で落ちたが、結局北の方にある国立大学に合格することができた。裕福な家庭に育った坊っちゃんだと自分でも思う。

 本を読んでいてたまに思うのだけれど、本の著者の中には若い頃から苦労をした経験を持つ人が少なくない。野村克也氏はとても貧しくて家族を食べさせたかったからプロ野球選手になったというし、堀江貴文氏は幼い頃から貧乏で両親の仲が悪くそのせいで嫌な思いを何回も味わったという。そういう人たちは人生で何度となく苦労してきたそうだ(堀江氏なんてよくわからない罪で起訴され、刑務所に2年間も入れられている。壮絶…)

 僕はそんな類の話を聞くたびにどこか自分に劣等感のようなものを感じてきた。ずっと恵まれた環境で育ってきた自分は、人生で自分の望んだものを手に入れられないのではないか、と。ただ、そんなわかりやすいストーリーに自分を合わせようとする必要はない、と最近は思うようになった。昔見たテレビ番組(「プロジェクトX」とか、「プロフェッショナル仕事の流儀」とか)を思い出してみても、失敗・苦労・挫折→復活・成功!というストーリーになっていて、とてもわかり易い。でも、人生ってそんなに単純なものではないだろう。成功→失敗→リタイア・隠居→安らかな生活というパターンもありだし、失敗続きの人生だって、圧倒的な才能に恵まれて失敗知らずの人生だってあるだろう。だから、自分のこれまでの境遇については感謝こそすれ、劣等感を感じることはまったくない。確かにずっと苦労をしてきた人はどこか生きることに焦燥感を持っていることが多い(スティーブ・ジョブズがその典型例)。でも、そうじゃなくても全然生きていていいし、それとは違った人生の楽しみがある。僕は焦燥感なんか持って生きていたくない。

 何が言いたいのかというと、自分に自信を持っていこう、ということだ*。別に、いわゆる成功することが絶対に人生を豊かにするのに必要だとは思っていないけれど、何かしら自分が実現したいと願うことは実現させたい。そのためには、「それは可能か?」と自分に問うたときに、根拠なんて何もなくても「できる」といえるだけの自信を持つことがとても大事だと思う。

 僕は、クリエイティブになりたいと思う。大学などの公的な研究機関で研究をこれからも続けるのか、民間企業に勤めるのか、それとは別の道に進むのかはわからないけれど、なにか価値を創り出す仕事をしたいと思っている。最近、自分が「すぐ手が届きそうで無難だ、自分にはこれくらいが妥当だ」という理由で選択をしそうになっていることに気がついた。そしてその背景には、自分のこれまでの無難な恵まれた人生に対する引け目のようなものがある、気がする。これまでの境遇がこれからの僕の人生に関係ない、ということはありえないのだけれど、過去は変えられないしいまさらどうしようもないじゃないか。これからのことなんてわからないけれど、ちゃんと自分を信じること。そこだけは守らなければいけない自分の中の掟だ。

苦労はしたくないが、思考を止めず努力は続けよう。

一度しかない人生なんだからさあ。自信持ってやっていかないとね。

 

*(なんか、どこにでもある自己啓発的な結論になってしまった…でも自分にとってはこれがとても大事なことなので書きました。)