ルビスコくんの日記

博士学生の日記です。考えたこと、学んだことを書きます。

いろんなことが、うまくいきそうな予感。

この数ヶ月、いろんなことがあった。祖父が亡くなって、彼女と別れて。気になっていた女性に声をかけたけど見向きもされなかった。でも、なんだか今、気持ちがとても充実している。僕がこれから歩もうとしている道は厳しいけれど、それでも案外頑張れるんじゃないか、そう思えるようになってきた。全然根拠はないけど。

十年前、高校2年の僕は、十年後の自分はとりあえずどっかの大学に行ってどっかの会社に入るか公務員になるかして働いてるんだろうとぼんやりと考えていた。でも実際は全然違った。そんな、旧世代的なつまらない価値観からはとりあえず脱することができた。

 そういえば、十年前僕はクラシック音楽が大好きで毎日聴いていたのだけど、どういう演奏がいいのか、よくわからなかった。だいたいCDなんて一流のプロの演奏家が演奏するものなのに、どうやって良し悪しとか好き嫌いを判断すればいいんだよって感じで。いくら聴いてもわからなくて、でもわかっていない自分が嫌でとりあえず本に書いてあった通りに「カラヤンの音楽は薄っぺらい」なんて嘯いていた。でも、最近また十年前と同じくらい聴くようになったら、いつの間にか自分の好みができていた。ああ、なんだこんなもんだったんか。なんて。大体自分の好みも把握できつつある。あの頃はいろいろなもので自分を縛り付けていたんだな。音楽の聴き方一つとってもちょっと変わった。

毎日が楽しいか?というと、少し違う気がする。これから、自分のなかのいろんなことが、少しだけれど変わりそうな予感。思っていたよりももっと自由に生きていけるんじゃないか、そういう期待が胸の中に少しずつ湧き出してきてる。

僕は心配性なので、「それで大丈夫なの?本当なの?」と自分に問いかけても、あまりちゃんと説得できないのだけど、「とりあえず大丈夫!」って答えてる。

 


スピッツ / ルキンフォー

 

最近の僕の時間管理法

数ヶ月前から、僕が続けている時間管理法を紹介します。簡潔にいうと、Togglでタスク管理しながら、ポモドーロ法で時間を区切っています。

ポモドーロ法とは、休憩する時間と集中する時間を完全に区切りメリハリをつけて集中する方法のことです。僕の場合、30分作業をして5分休憩、そしてまた30分のち休憩、これを繰り返します(普通は25分と5分らしいです)。時間が来たら、途中でもできるだけすぐ作業を中断します。ちょっと困ったことは、休憩の時間が5分と決まっているのにそこでだらっと時間を延ばしてしまうことがよくあることです。5分って短いですよね。

 これだけだと、自分が普段何の作業にどれくらい時間を割いているのか把握できません。そこで、Togglで時間+タスク管理をしています。Togglにはストップウォッチ機能がついていて、タスクをしている時間を測ることができます。それだけでなく、何の作業をしたか、それはどんな種類の仕事かをタグ付けすることができます。このタグ付け、普通に「XXの研究テーマ」とか「OOの実験」などのようにつけてもいいのですが、それはあまり役に立ちません。なぜなら研究には期間ごとにフェイズというものがあって、冬と春には論文を書く夏の観測計画を立てる、夏には観測の準備と実行に時間を多くなど、やることが期間によって異なるからです。それぞれの期間ごとに最優先事項とその次に大事なタスク、そしてそれより重要でないタスク・・・があって、それを記録するだけではあまり自己分析には向きません。優先順位の一番高いことをするのは当たり前で、「喫緊の課題ではないけれど自分がしたいと思っていること」をどれだけできているかが重要なのだと思います。だから「XXの研究」などではなく、A, B, C, Dで分類します。

 Aは喫緊の最優先事項。学会の要旨作成だとか、締切のせまった論文の執筆とか、実験のセットアップとか。Bは重要であるが緊急ではないタスクです。数学・物理・統計の勉強やシミュレーションモデル、植物学についての勉強は今のところ緊急ではないですが、続けていきたい事項であります。Cは重要ではないが緊急のタスクです。飲み会の幹事の仕事など、その時々に自分に降り掛かってくる雑用です。Dは重要でもないし緊急でもないもの。といっても、そんなのたぶんないんじゃないかなあと思います。自分が進んでやろうと思ったことはBに入るし、重要でもないことは緊急でもない限りやらないのではないでしょうか。

 重要なのは、上でも触れたようにA, B, C, DのうちBにどれだけ時間を割けているかです。Aはやって当たり前。Bは自分への投資ですから、どれだけ成長できるかはBのエフォートにかかっているのではないかと思います。そしてどうでもいいCをどれだけ効率よく終わらせられるか。おそらく、学生の身分ではなく働き始めるとCの割合がどんどん大きくなると思います。今の大学の教員を見てるとわかるのですが、研究と教育以外の業務がとても多い。研究予算を獲得するための申請書や、どうでもいい会議に教員たちの貴重な頭脳が使われて疲弊してしまっているように思います。だから、これからCの領域が増えることを見越して、自分のしたいB領域にちゃんと時間を時間を割きたいです。そのための確認としてタイマーの機能がついているTogglを使っています。

(ちなみにこの分類法はTogglを紹介していたどっかのブログで見たものなので僕のオリジナルじゃありません。どこで見たのかも忘れました。)

忙しさに負けるな

 8月ごろ、僕は暇だった。というより、研究のことこれからのことでいろいろ思い悩んで、研究を数週間ストップして本を読んだり映画を観たりしてだらだら過ごすことにした。そこから研究室に復帰して、リハビリも兼ねてほとんど九時五時で研究をすることにした。そのころは、ブログもそこそこ更新していたし毎日日記を書いて、人生の様々なことについて考えるようにしていた。正直、はたから見たら何の生産性もないただの意識低い博士学生だっただろうけど、その頃にダラダラ過ごしたおかげで前向きになることができた。ブログをできるだけ週に数回更新しようとし始めたのもそのころだった。

 が、最近は少し忙しくなってきた。そろそろ研究にも論文書きにももっと入れ込まないと再来年の卒業に間に合わないし、直近のワークコースのために勉強しなければいけないことがたくさんできた。その途端、ブログの更新が今週は途絶えてしまった・・。さあ書くぞとPCの画面に向かっても書きたいことがあまり湧いてこないのだ。別に僕のブログなんて、この世にあってもなくたってだーれも困らないほどのことしか書いていないのだけれど、自分のなかで考えた稚拙な思考を形にするための、訓練の場所なのだ。自分にとってはそこそこ大切なものとして続けていきたいと、特に最近は思っている。だから数日だけ書かないでいてしまっただけでも、僕にとってはなんだかムズムズする感じだった。

 書けないことがなんだかちょっともどかしい、というこの状態はいいものなのかもしれない。書くことが習慣化できた証だ。内容の薄さと青臭さと表現の稚拙さはさておき、何はなくとも1000字以上の長文を書き上げることに対する抵抗感はずいぶんとなくなった。一年前の記事を読んで確認したのだが、「確実に、一年前よりも文章を書く力は上がっている」と言い切ることができる。

 だいたい、書くことを考えながら書くので一記事に一時間位かかる。毎日あるいは2日に一回、一時間くらいなら、続けることはやろうと思えばできるけど、そんなに書くネタを出し続けられるかどうか。「そんなに書いてどうするの」って言われそうだけど、僕は、自分の意見を作りたいんだよ。なにか聞かれてその場で自分の意見を構築するなんてだいたいできないから、僕はここで好きなものや嫌いなもの、こうあるべきだという主張について、整理して考えている。忙しくても、そういう諸々のことについて考える時間は毎日きちんと取るべきだと思う。

忙しさに負けるな。

植物の葉はなぜ緑色なのか?

とあるテレビ番組で、「葉っぱはなぜ緑色なの?」という疑問が取り上げられたらしいです。で、その答えが「葉っぱは赤と青が好きだから」だったと。以下、番組の説明の要約。

「私達が普段見ているものの色は、対象の物質が反射した光の色です。物質の表面に光が当たって、ある色の光は物質に吸収され、またある色の光は吸収されずに表面で反射されます。その表面で反射され(吸収されなかった)光が人間の眼に入って色として認識されるわけです(ちなみに物質が可視光域のあらゆる色の光を吸収すると私達には黒色に見えます)。植物の葉は、太陽光に含まれている赤と青の光を強く吸収して緑を反射する、だから緑に見えます」というのが番組の説明だったようです。ただ、この説明はちょっと、説明がかなり足りていないというか、誤解を招く恐れがあるように思います。

 なぜなら、植物の葉はちゃんと緑色の光も吸収して光合成を行っているからです。実際、(紅葉や黄葉でない)緑葉の波長ごとの光の反射率を見てみると、10%程度しかありません。透過率も10%ほどですから、緑の光は80%くらい吸収されていることがわかります。一方、赤と青は葉に当たった光は9割以上吸収されます。よって、相対的に緑が強くなるために、葉は緑に見えるわけです。それだけではなく、人間の眼はどんな光の色にも均等に感度があるわけではなく、緑色が最も強く見えるようになってることも、人間の眼に葉が緑色に見えることの原因であります。

クラシック音楽を聴こう

僕には常日頃不思議に思っていることがある。それは「どうしてみんなクラシック音楽を聴かないのだろう」というものだ*1。もちろん、いくつか曲を聴いてみて趣味が合わなかったという人もいるだろうけど、多くの場合聴かず嫌いなんじゃないかと勝手に想像している。他人の反応を見ている限り、どうやらみんな、クラシック音楽のことを退屈なものと思っているらしい。世の中にはクラシック音楽の他にも楽しいことは山ほどあるから、聴かないならそれはそれでいいのだけれど、傲慢なことに僕は聴かなきゃ損だろと思っているので、クラシックは聴かないけど、ほんのちょっとなら聴いてもいいかも?という人たちのために、まずは「なぜ退屈と思われているのか」から考えたいと思う。

なぜクラシックは"退屈"なのか?

 クラシックといえば、タキシードを着た地味〜おじさんが指揮するオーケストラが眠たくなるようなメロディーを奏でてるのを想像する人も多い。

「私、友達がコーラスで出るっていうからクラシックのコンサートに行ったんだけど、すぐ寝ちゃってさ〜」

これからの季節、こんな話をする人が全国で急増するだろう。年末はなぜか知らないが全国のオケが第九(ベートーヴェンの第九交響曲のこと)をこぞって演奏することになっている。第九にはコーラス(合唱)がついていて、趣味で合唱をする人はそこに駆り出されることがあるのだ。第九といえば誰もが知っているあのメロディー(ミミファソソファミレ♪)有名だが、冒頭ではまったく出てこない。第1楽章はいきなりティンパニーが大暴れ、ドコドコー!と始まる。聴いたこともないメロディー。第2楽章になっても第3楽章になってもあのメロディーは出てこない。たとえ第2楽章まで持ちこたえても、第3楽章になるとすごーくゆったりとした曲調になって、だいたいここで眠りに落ちる。目を覚ますと第4楽章。おなじみの旋律で大いにに盛り上がり、終演。終わりよければすべてよしで帰路につく。

 もったいないなあと思う。なぜ第4楽章だけでなく1~3楽章も楽しめない人が多いのか。よくクラシック入門書には「それは形式を知らないからだ、一つの楽章にはソナタ形式という演奏の形式があって〜」みたいな話になるのだが、それはちょっとずれている。つまり、そんな知識よりも「聴いたことがない」という状態が退屈の一番の原因なのだ。クラシックに限らず、まったく知らないロックバンドのライブに行って楽しめるだろうか?大概の人は聴いたこともない曲ばかり演奏されても退屈してしまうだろう。

退屈でなくするには

 だから、クラシック音楽にほんの少しでも興味があるなら、事前に聴けばいいのだ。部屋の中で、洗い物やアイロン掛けの間にスマホで聴けばいい。何回か再生しているうちに、曲がどういうものかわかってくる。どこのフレーズがかっこいいとか、だんだん理解できるようになるはずだ。これは馴染みのあるポップスとかロックでも聞き方は同じで、みんな経験があると思う。異なるのは、大概歌詞がないのと、一曲(あるいは一つの楽章)の長さが長い、くらい。ポップスなどのアルバムはだいたい一枚4,50分で、クラシックの場合はひとつの交響曲で40分くらい(ただし作曲家などによって結構幅はある)。だからポップスのアルバム1枚だと思って聴けばいい。あるいは、上に第九の例を挙げといてなんだが、最初は演奏時間の長い交響曲よりもピアノ曲ショパンとかリストとか)の方が良いと思う。ショパンやリストの曲は聴いたことのあるものが多いし、旋律がとにかく美しいからすぐに好きになれる。

 クラシック音楽は、昔に比べて確実に身近になったと感じている。僕が高校生の頃は、インターネットは一応あるにはあったが今みたいに発達はしていなかった。僕はどうしていたかというと、NHKのFM放送か地上波の番組(N響アワーズ)、NHKBS放送で昼の時間にやっている室内楽コンサートを録音or録画したり、CDを買ったり、ツタヤで借りたりしていた。つまり、昔は自分から行動しないと手に入らなかったのだ。あまり興味のない人がわざわざ自分から馴染みのない音楽を聴くとはあまり思えない。でも今は違う。スマホ(もはやパソコンすらいらない!)でYouTubeのサイトに行って'Beethoven'と検索をかけるだけで山のように演奏音源が出てくる。それも中には世界の一流演奏家の演奏もたくさんある。AmazonPrime会員なら会員特典でAmazonMusicがついていてそちらもかなりの数の音源がある。本当にいい時代になった*2。『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』などクラシック音楽を扱った漫画があるが、ああいうものを入り口にしてもいいと思う。上述の通り、作中で登場人物たちが演奏した曲は今はすぐに聴くことができる。ちょっと気になったら聴いてみたらいい。これだけ敷居が低く、しかも楽しいものに、とりあえず試さない手はないと思うのだが。

 

追記。ちなみに僕はクラシックヲタではありません。純粋にいろんな作曲家の音楽を聴くだけです。最近ようやく演奏家について好みが出てきましたので、その程度です。

*1僕がクラシックをよく聴くと言うと「あーやっぱりー(マジメでおカタそうだもんねー)」みたいな反応(そこまで露骨じゃなくても)をする人(なぜか女性に多い)はマジで嫌いです笑。

*2音楽を売る側からしたらどうなのかはわからないが、クラシック音楽の敷居は確実に低くなったので、クラシックを聴く母数は増えているんじゃないだろうか。

僕の境遇とこれからについて。

僕がこれまで歩んできた道は、とてもありふれたものだった。父は会社員、母は専業主婦で、僕が生まれたときからずっと「失われた20年」と呼ばれる長い不況が続いていたわけだが、そんなニュースは子供の頃からほとんど気にしたことがなかった。そのぶん父が頑張ってくれていたのだ。おかげで、僕は中学受験をして私立の中高一貫進学校に入ることができた。中学高校では特に目立たなかったが、友達は数少ないながらいた。いじめられた経験もない。第一志望の大学には二年連続で落ちたが、結局北の方にある国立大学に合格することができた。裕福な家庭に育った坊っちゃんだと自分でも思う。

 本を読んでいてたまに思うのだけれど、本の著者の中には若い頃から苦労をした経験を持つ人が少なくない。野村克也氏はとても貧しくて家族を食べさせたかったからプロ野球選手になったというし、堀江貴文氏は幼い頃から貧乏で両親の仲が悪くそのせいで嫌な思いを何回も味わったという。そういう人たちは人生で何度となく苦労してきたそうだ(堀江氏なんてよくわからない罪で起訴され、刑務所に2年間も入れられている。壮絶…)

 僕はそんな類の話を聞くたびにどこか自分に劣等感のようなものを感じてきた。ずっと恵まれた環境で育ってきた自分は、人生で自分の望んだものを手に入れられないのではないか、と。ただ、そんなわかりやすいストーリーに自分を合わせようとする必要はない、と最近は思うようになった。昔見たテレビ番組(「プロジェクトX」とか、「プロフェッショナル仕事の流儀」とか)を思い出してみても、失敗・苦労・挫折→復活・成功!というストーリーになっていて、とてもわかり易い。でも、人生ってそんなに単純なものではないだろう。成功→失敗→リタイア・隠居→安らかな生活というパターンもありだし、失敗続きの人生だって、圧倒的な才能に恵まれて失敗知らずの人生だってあるだろう。だから、自分のこれまでの境遇については感謝こそすれ、劣等感を感じることはまったくない。確かにずっと苦労をしてきた人はどこか生きることに焦燥感を持っていることが多い(スティーブ・ジョブズがその典型例)。でも、そうじゃなくても全然生きていていいし、それとは違った人生の楽しみがある。僕は焦燥感なんか持って生きていたくない。

 何が言いたいのかというと、自分に自信を持っていこう、ということだ*。別に、いわゆる成功することが絶対に人生を豊かにするのに必要だとは思っていないけれど、何かしら自分が実現したいと願うことは実現させたい。そのためには、「それは可能か?」と自分に問うたときに、根拠なんて何もなくても「できる」といえるだけの自信を持つことがとても大事だと思う。

 僕は、クリエイティブになりたいと思う。大学などの公的な研究機関で研究をこれからも続けるのか、民間企業に勤めるのか、それとは別の道に進むのかはわからないけれど、なにか価値を創り出す仕事をしたいと思っている。最近、自分が「すぐ手が届きそうで無難だ、自分にはこれくらいが妥当だ」という理由で選択をしそうになっていることに気がついた。そしてその背景には、自分のこれまでの無難な恵まれた人生に対する引け目のようなものがある、気がする。これまでの境遇がこれからの僕の人生に関係ない、ということはありえないのだけれど、過去は変えられないしいまさらどうしようもないじゃないか。これからのことなんてわからないけれど、ちゃんと自分を信じること。そこだけは守らなければいけない自分の中の掟だ。

苦労はしたくないが、思考を止めず努力は続けよう。

一度しかない人生なんだからさあ。自信持ってやっていかないとね。

 

*(なんか、どこにでもある自己啓発的な結論になってしまった…でも自分にとってはこれがとても大事なことなので書きました。)

帰れない二人

僕は井上陽水の「帰れない二人」という曲が好きだ。僕の叔父は井上陽水のファンで、高校生のころにこの曲が入っている「氷の世界」を貸してもらって以来、ことあるごとに聴いている。

この曲は作曲が忌野清志郎で、作詞を井上陽水が担当しているのだが、さすが井上陽水。もう、情景描写が素晴らしすぎる(帰れない二人 井上陽水 - 歌詞タイム)。

(最終列車を逃したのか、)帰れなくなって手をつないで夜明けを待つ恋人たち。明け方になると夜露が降りてきて、寒さで震えながら話をしている。

描かれているシーンとしてはこれだけなのだけど、本当にうまい仕掛けが施されている。

「僕は君をと いいかけたとき 街の明かりが消えました
 もう星は帰ろうとしている  帰れない二人を残して」

歌詞の冒頭は恋人たちの描写なのだが、街灯が消える、という一瞬の出来事をさかいに、そこから一気に視点が切り替わって、星空の描写になる。地球の自転と恒星の光という半永久的な時間軸と、恋(あるいは人間?)という儚い、とても短い時間軸の対比。そして星たちは薄明かりの向こうへと消えていく。

そう、詩っていうのは、「恋は儚い」とか直接的な表現をするのではなく、本来こんな風に情景描写をしたり視点を切り替えたりと、言葉と工夫を尽くして描くものなんじゃないかな、と思わせてくれる。もちろん「好き」とか「会いたい」とか、ストレートな歌詞でも僕が好きな曲はたくさんある。けれど、やっぱり詩としては僕は「愛してる」よりも「月がきれいですね」派です。

「帰れない二人」は、メロディーもこの歌詞にとてもあっていて、切なくて澄んだ一曲なので、是非聴いてみてほしいです。

褒められたい

僕は人から褒められたい。褒められると嬉しくって、モチベーションが高まる。このブログでは、何度か「修士まではとにかく頑張っていたけど、博士課程で別の研究室に進んでからはそこまでしなくなった」と書いたことがある。その理由は「そこまで研究が好きではないからかな」と思っていたのだが、いま、その理由がわかった気がする。

 僕は修士のころは比較的年の近い指導教員(准教授)と仲がよくて、その准教授はことあるごとに「君はやる気もあるし研究がよくできる。頑張っている」と僕のことを褒めてくれていた(ただそれと同じくらいには自慢話も聞かされていてそっちはちょっとうんざりだったけど)。一方で、今の研究室の指導教員はまったく褒めてくれない。そういえば今まで褒められたことは片手で数えるくらいしかないように思う。別に悪い人ではまったくない。むしろいい人で、僕が2週間くらい休みますと言ったときはけっこう心配してくれて「XXくん(僕)が元気ないみたいですし、みんなで飲みに行きましょうか」と言ってくれるくらい。変に雑用を押し付けられたことは一度もないし、本当に自由に研究させてくれる。でも、「頑張ったね」「面白いね」と褒めてはくれないのだ。

 念のために言っておくが、僕は褒められるために研究をしているのではない。そうでなければいろいろなリスクを背負って博士に進学なんてしない。褒められなくてもやるけど、褒められるともっとやれる。研究にかける時間だけじゃなくて、時間あたりの生産性もあがると思う。まあ、逆に「褒められないとそれだけ頑張れない程度にしか研究に対して思い入れがない」ともいえるかもしれないが、まあ、 それはそうなのかもしれない。それはもう仕方がない。

 さて、では他人から褒められないと”最大限の”頑張りを引き出せない僕が、どうすればいいのだろう。都合の悪いことに、「先生、僕のこと褒めてください!」と頼みこんで褒められても嬉しくもないしやる気も上がらないのは目に見えている。他人が褒めてくれるかどうかにやる気が左右されるのは、非常に安定性に欠ける。別に褒められないと何も進捗できないわけではまったくないので、今のままでもいい、といえばいい。でも、できれば他人から褒められた場合に出るやる気の半分か三分の一くらいでいいから、定期的に自分で発電することができればなあ、と思うのである。その方法はこれから考えていくことにします(結論がなくてすみません…)。

追記。もしかしたらこの文章を読んで「甘ったれだな」と思う人がいるかもしれない。いや確実にいるだろう。自分でも少し甘っちょろいかなと思うから。でもマッチョな根性論は、僕には合わない。それが僕という人間の持つ人格の一部なのであり、こればかりはいまさらどうしようもない。それよりもこの甘っちょろい自分とどう付き合っていくかのほうが大事なのだ。

10月はいろいろあった。

この10月は、とても大きな出来事があった。

ひとつは、祖父の死。

 90歳まで生きて、病院にも施設にも行かず、自宅の寝床で息を引き取った。昭和3年生まれだから、ほとんど昭和と平成のすべてを生きたことになる。あれだけ煙草を吸ってしかも偏食だったのに、大きな病気にかからずよくこれだけ長生きしたと思う。

 祖父は、とにかく頑固だった。彼は14歳のころに事故で父親を亡くし、一家を食べさせるために工場で懸命に働いたらしい。戦争で食べ物がなかったため九州の親戚を頼って米を分けてもらったものの、帰りの満員の汽車の内で憲兵に荷物を検査されそうになったので泣きながら窓から米を放り投げた、あのときは本当に悔しくて悔しくて、という話は何回も聞かされた。時代のせいで勉強をできなかった経験から、一生懸命勉強をしていい大学に入り、名の通った会社に勤めることを自身の子と、孫への理想としていた。

 僕はそんな祖父のことを煙たがっていた。中学校のころに定期テストでいい点数を取っただけで、京都大学の名前を出すのだ。まあ褒めてくれたので嬉しかったが、そんな大学の名前を出されても、と思っていた。結局第一志望の京大には2年連続で不合格となり、遠くの関西とは遠く離れた大学に進学することになったのだが、私学でもいいから(自分の知っている)近くの大学に通うべきだ、と言って聞かなかった。さすがに僕も怒っていろいろ言い返したが、話は平行線だった。別に祖父の許可がいることでもないのでそのまま進学したが、それ以来祖父と壁を作ってしまったように思う。正月と夏に帰省したときには必ず祖父に会いに行ったが、話題を間違えると説教になるのでこちらから話題を出すことはなかった(このころは僕は祖父だけでなく姉妹以外の家族にはだいたいこんな反応だった)。まあそれでもいろいろ話したけど。普段は本当に気のいい面白いおじいちゃんなのだが、自分が思うところのある話題になると熱くなって自分でも説教を止められなかったのだろう。

 ここ数年で祖父は外に出かけなくなって一気に老け込んで、最後のほうは聴力の低下とそれに次ぐ痴呆のせいでほとんどまともに会話ができなくなり、今年の9月に「会うのはもうこれが最後かもしれない」と思って別れたあと、その通りになってしまった(そのときのことはこちらに書きました→祖父 - ルビスコくんの日記)。葬式の前に、式に来た人に見てもらうためのアルバムを家族で少しだけ見た。最後の姿とはまったく違う、若々しくてダンディな祖父を見て、「しまった」と思った。「おじいちゃんはその『人生』で、何を大切にして、何に迷い、何に感動して、どんな苦労をして生きてきたんだろう?」ということを僕は全くといっていいほど知らなかったのだ。幼稚園のころに違う方の祖父を亡くして以来人の死に触れてこなかったとはいえ「ああ、『亡くして初めて』とか、なんてありきたりな…」と自分を馬鹿だと思った。目の前の祖父しか見えていなかったのだ。

 僕の祖父はどこにでもいそうな、サービス精神旺盛で頑固な亭主関白オヤジだったが、それでもその一度しかない初めての人生を、迷いながら生きてきたはずだ。そしてかわいい孫にそれを伝えたかったのではないかと思う。でもそんなこと、自分から話すものではないじゃないか。それこそ説教臭くなる。長い人生を経験して得た、伝えたい言葉を引き出すのも、若い人の仕事なんじゃないかしら。

日齢10000日!

僕たちは普通、自分の齢を年で数える。僕は今年で27歳。つまり僕があのN市の病院で生まれてから地球は太陽の周りを27回公転したことになる。だが、この世には本当に面白いことに気づく人がいるもので、「日で齢を数えたら面白くね?」と考える人がいるのだ(このサイトです→ 生まれてから何日たったのかな)。

 とんでもなく面白いものを見つけてしまったと思った。しかも、このサイトで僕の誕生日を打ち込んで計算してもらうと、現在約9800日で、なんと日齢10000日(つまり生まれてから10000日目)が来年の5月に来るのだ!すごい。いま気づけてよかった、と安心した一方で、来年の5月以降に気づいてしまったらどんなにか悔しい思いをしただろうか、と少し恐ろしくもあった。

 日齢の特徴は、桁が増えることだ。年齢で数えた場合は10歳と100歳で桁が変わるが、10歳ではその年齢の重みを知るには若すぎるし、100歳までいってしまうと流石に老いすぎて元気がなくなっているだろう。しかし、日齢で数えると、桁が上がるのは生まれてから10日で一回目、100日(3ヶ月ちょっと)で二回目、1000日(2歳と8ヶ月)で三回目。で、10000日(27歳4ヶ月)になるのを最後に、もう桁は増えなくなる。どんなに頑張っても100000日(274年)までは絶対生きられないからだ。これは、とんでもなくめでたいことであるうえに、27歳という絶妙にちょうどよい若さがあることも日齢10000日祝い(このサイトでは「万日元服式」と言ってました笑)。大抵の27歳は働いて数年目でお金もそこそこ持っているだろうから(僕は働いてないしお金も全然持ってないが)、自分の好きなように祝えるのだ。

 さあ、僕は来年の5月にどうやって自分の10000日を祝おう?もちろんこの事実を知ってしまった以上、無為に過ごすことはできない。やっぱり自分の大事な人と過ごしたいし、実家に帰るか。ただ、「生まれてから10000日やから!」と鼻息荒くして実家に帰っても、「お、おうそうか…」て感じでなんか家族と温度差を感じる気がする。そのときに彼女がいたら一緒に祝ってもらおう。いない場合は、仕方ないから自分で祝おう。旅行に行くか。どこに行くかはこれから考えよう。

 こういうのを知ると、いかに自分が常識という檻の中に囚われているのかを思い知らされる。いや、檻というより、サファリパークか。自分は自然の中で生きていると思い込んでいるサファリパークのガゼルのようだ。常識を疑え!って、本当にいろんな局面で言われてて陳腐化してしまっている文句なのだけど、常識って自分の周りの空気のように自然に存在しているからそれに気づくのって本当に難しい。そんなセンスを持ちたいし、できればそんなセンスを持った人と一緒にいたいなあ。