ルビスコくん空を飛ぶ

博士学生(D1)の日記です.日記に加えてプログラミング(R)のメモ書きもします.

健康第一!

「無事息災ということが人間の幸福の断然主要な要件だからである。ところでこのことから出てくる結論として、およそ愚行中の最大の愚行は、何事のためにせよ、自己の健康を犠牲にすることである。(中略)健康よりも一切を軽くみなければならない。」

これは本当にその通りで、幸せにまず必要なのは何よりも健康だ!というわけである。だって病気になって高熱出て頭がガンガン痛い状態で嬉しいことがあっても「今それどころじゃないから!」って感じで面白くもなんともない(まあ、どのレベルの出来事かにもよるが)。こんなときに一人で寝ながら何か考えようとすると、ひたすらマイナス思考になって、将来が不安になり、自分が今までしてきたことは全く無意味だったんじゃないかと錯覚する(話はそれるがこう考えるとうつ病ってつらすぎるよな。だって何をしても何も感じなくなってしまって、そのうえ身体的にも不眠or過眠や恒常的な疲労感に襲われるのだから)。ところが病気が完全に治ってしまうとけろっと何もなかったように普段の思考に戻れてしまう。

風邪などの病気はある程度偶然性があって仕方ないこともあるのだけど、自分から健康を壊しに行っているなんて本当にもったいない。研究室でよく見るけど徹夜なんて論外だし、夜型生活もよくないと思う。だって大体の研究室って週に1度はゼミがあって、ゼミは大概朝から始まるじゃない?少なくとも週に1度はリズムが崩れることが確定してる生活ってどうなのよって思います(そう考えるとコアタイムにもメリットってあるのね)。1日3食バランスよく食べて、人と話して、適度に運動し、帰るべき時間に帰って、風呂に浸かって、寝るべき時間に寝る。これ、かなり重要だけど結構難しいよね。。もちろん、その健康的な生活はあくまで幸せの必要条件であって、十分条件ではない。要するに感受性を高めるための土台づくりである。

たまーに大学院生のおっさんになっても「オレはまだ若いから大丈夫だ!」みたいな学生風を吹かせてヤバイ生活をしてしかも改善するどころか逆になぜかそれをドヤ顔で語ってくるひとがいるけど、そういう人って一度病気にならないとわからないのかしら?

ありあまる富

本物の富は、あなたが持っているものでも、他人からの評価でもなく、あなたの心の中にある。

それは他人からはみえないし触れることもできない。ましてや盗むこともなおさらできない。心の貧しい人々は、自らの空っぽな心を物質あるいは名声という空虚なもので埋め合わせようとするが、彼らはいくらその方向で頑張ったところで埋め合わせはできないので、本当の心の充足を知る人々に嫉妬し、蹴落とし、彼らからいろんなものを奪ってしまう。でもそんなことをしても、心は満たされず貧しくなる一方だし、その人々から本当の宝を奪うことはできない。その宝は人間の心から生まれるので、心を奪わない限り盗めない、つまり原理的に盗むこことはできないのだ。極端な話、その人々はたとえ牢屋に閉じ込められて身体の自由を奪われたとしても、思索を止めることはないししたがって幸福であることをやめない。だが不自由それ自体は不幸なことである。もちろんこれは極端な話だが、こんな不幸が世界では大小あれど起こり続けている。

心の貧しい人は、人々の心から幸せをなくせはしまいかと、言葉で他人の心を傷つける。優しい心の持ち主は彼らの言葉にときに傷ついてしまうこともあるだろう。だが、その賢明さでいずれ彼らの言葉に嘘や虚勢が含まれていることに気づく。そして傷ついた分だけ、痛みを知った分だけ他人に優しくなって、ますます彼/彼女の心は本物の富で満たされていくのである。

心の中にあるそれこそが真の幸福である。それは誰からも不可侵である。ただ、その性質ゆえに直接共有もできず、言葉によってしか他人に伝えることができないという意味で孤独でもあるのだが。

人に伝えるということ

昨日、含蓄のある言葉を聞いたのでそれを忘れないようにメモするのと、それに少し自分の考えを付け加えてみる.

人に自分の考えを伝えることの意義というのは「価値観を共有して、幸せの感度を上げること」である.つまり,自分が普段の生活の中で「どうすれば楽しくなるか,どう考えれば心が(人生が)豊かになる・楽になるか」ということをお互いに共有できれば,共有できた人はそのぶん楽しいことを見つけやすくなるしより豊かになりやすくなる,ということ.他人のふとした言葉が,言語化できていなかった今の自分の状態にすごくしっくりきて楽になった,という経験は多くの人が持っていると思う.例えば僕は,学部生の時は「どうせ僕なんて大したことできるわけないし,これからみんなと同じようにテキトーなとこに就職して一生を終えるんだろな」と人生についてぼんやりとまあこんなもんだろと思っていたところがあったのだけど,当時の指導教官に言われた「何いってんの,できないからやるんでしょ?」という言葉がきっかけで研究をやってみる気になって,生活にハリがでてきた.まあ現実の変化はもっと連続的で,その言葉をきっかけとして少しずつ少しずつ日々の態度と行動が変わっていったのだけど.こんな風に,言われてみれば確かに「価値観を共有して、幸せの感度を上げる」で多くのことを説明できる.

もう少し説明すると,ここでいう共有とは,単なる言葉のレベルの共有ではなく,感覚のレベルでの共有である.言葉を受け取ると同時に感覚として認知できる場合もあるが,そうでない場合は,①そもそも共有する価値がない,②それをよく考え実践した末に身につけることができる,③実践してもできない,のいずれかである.まず①では自分の判断が求められる.言葉を発した人間に共有という感覚がなく単に自分の主義主張を押し付けてきた場合などがこれにあたる.そんな気配を感じたらその言葉は無視していい.一方で,自分のことを思っていってくれているということが感じられたら,たとえ相手が嫌いなやつでも少なくとも一回は実践してみるべきだろう.言葉から受ける印象と実際の感覚とはかけ離れていることが多いから,なるほどねと思っても実際にやってみると思ってた感覚とは違った なんてことはざらにあるのだから.

本当に大切なこと

僕はこれまで,研究をするうえで「自分に何ができるか」を重視してきた.プログラミングや測定機器の扱い方や論文の書き方など,研究の遂行に必要なテクニックをひとつひとつ獲得していけば,いい研究者になれると考えていた.しかしそれらは「自分で考える力」という土台があって初めて有効に活用されるのであって,テクニックばかり身につけても僕が目指す本当の高みには絶対に到達できない.そのことに気づかせてくれたのは僕の周りにいる人ではなく,ネットで知ったある研究者だ.

もちろんそれらのテクニックはなしでは研究はやっていけない.それはそれで必要なものだし,それがあって初めて考えるための材料,つまりデータがとれるのだから.ただ,僕は今までデータを見てじっくり考える量が少なかったように思う.生データを取って,それを加工したり可視化したりモデルで他の変数を計算したりすることまでは一生懸命やるのだが,そこまででけっこうな時間をつかってしまいそれでやった気になってしまっていた(その意味では,データの加工にそこまで時間の掛からない実験系の人たちのほうがしっかり対象について考察しているのかもしれない).

ラスコー展

昨日,仙台市にある東北歴史博物館の「ラスコー展」に行ってきた.知っている人も多いかもしれないが,ラスコーの洞窟壁画は1万5000年前に我々同じホモ・サピエンスクロマニョン人と呼ばれる人々が洞窟の壁に描いた動物や記号,ヒトなどの絵画群のこと.

彼らは明らかに絵を描くためだけに洞窟に入っていった.もちろん洞窟の中は光など一切ないし,絵を描くためにランプに獣脂を灯さなければならない.絵の具もつくらなければならない.どうして彼らはそんな面倒なことをしてまで絵を描いたのだろう?という疑問が,展示を見ていて自然と湧いてきた.そしてその疑問は,「どうして我々は絵を描くのだろう?」という問いとほぼ同義である.

館内の展示で興味深かったのが,「人類(新人)はアフリカで生まれ,ユーラシア大陸に渡って世界に分布するようになったが,ヨーロッパに分布したクロマニョン人だけが絵を描いたのではなく,多くの地域で独自に絵が描かれたことから絵を描くという行為は人類にとって普遍的なものなのかもしれない」という考察(ちょっと引用が不正確かもしれませんがご勘弁ください).現代では,絵を描くことつまり芸術は,芸術家を除いてあくまで趣味や娯楽の範疇に収まっているが,そんな芸術家でない僕達にも,芸術家たちと同様に芸術という行為は宿命的に刻み込まれているのだ.そう考えると,すこし近寄りがたいオカタイ芸術はもっともっと身近になるはずだ.

部活の経験は研究にいきる?

この前,ある教授が「僕の経験上,部活してたやつは本当に研究よくできる場合が多いんだよ」ということを話していたので,少し部活と研究について考えてみようと思う.確かに,その教授の言うとおり,学部時代に部活に打ち込んでいた人はよく出来る人が多い気がする.僕の指導教官は学部どころか大学院のときもスポーツに少なからぬ時間を割いてしかも全国大会に出たレベルだと聞いた。そこまでのレベルじゃなくても、学部のときに部活/サークルめちゃくちゃ頑張ったってひとは多い。もし部活の経験が研究にいきるとしたら以下のようになるのではないか。

● 目的意識が染み付く

部活というのは、何かのわかりやすい目標(例えばスポーツ含む競技だと「試合に勝つ」、芸術系だと「定期演奏会、展示を成功させる」など)に向かって努力していく活動である。すると、その目標を達成するために何が足りなくて、それを克服するためにはこれから何をどのような方法でどういう計画を立てるべきか、ということを、学生が主体になって考えることになる(ちなみにこれは大学の部活で顕著だと思う。高校でももちろんそういう側面はないことはないが、だいたいが顧問の先生の言いなりになっている)。卒論修論博論は明確な時間制限があるし、博士号を取ったあとでも近年は短期的にアウトプットを求められるので、こういう習慣が卒研を始める時点で持っていられると強い。

● 集中力と体力がつく

よく高3の夏の大会までずっと部活やってたやつが引退して本気で受験勉強し始めたら直前でめちゃめちゃ成績伸びるじゃないですか。あれです。スポーツをすることで集中力とそれを持続させるための体力がつくというのはみなさん納得していると思う。iPS細胞で有名な山中伸弥氏も大学まではラグビーをしていて、大学院時代は相当なハードワーカーだったらしい。やはり体力は大事。

● 何かに夢中になれる癖がつく

これは研究だけじゃなくて人生でとても大事なことだと思う。とにかく試合なり演奏なりで結果を残したい一心で何かに取り組んで、それを楽しむというのが癖になると、その対象が研究になれば楽しく研究が進むんじゃないかな。まあ、「対象になれば」ですが。

ここまで書いて思ったけど、これって研究だけじゃなくて研究以外の仕事や人生全般にとってすごく有益じゃないか。ただし、特に一つ目の項目に言えるのは、どれだけ頭を使ったかで部活から得られるものが断然異なるということ。私みたいに、サークルに入って週に3回も活動をしていても何となーく練習してみんなと仲良くなってハッピーみたいな取り組み方だと目的意識は身につかない(身につかなかった)。みんなをまとめ上げるキャプテン・部長だとか、何かの実行委員でサークル内での仕事をこなすなどの任務が人を成長させるのだと思うし、そうじゃなくても自分の技術の向上に頭脳を働かせて取り組む過程がその後でも使える思考力を鍛えるのだと思う。

 

 

僕のおじいさん先生に会いました

この前,研究室に一人の初老のおじさんが訪問してきた.誰かなあと思ってとりあえずあいさつしたところ,指導教官から「私の師匠のT先生です」と紹介され,驚いた.光合成科学の業界では有名人だ.そして,僕の指導教官の師匠だから,僕はその先生の孫弟子の一人というわけだ.そしてT先生と研究室でお酒を飲むことにした.

すると,T先生は「名前はなんていうんですか?」と聞かれたので僕の名前を答えたところ,「○○君ね,ちょっとメモしておこう.忘れっぽいんでねえ.」といってスケジュール帳を取り出して僕の名前を書いてくれた.孫弟子とはいえ,こんなしょうもないいち学生の名前をわざわざ覚えようとしてくれるなんて,「この人は人との出会いを本当に大切にする人なんだなあ」と思って,T先生の人徳が出会って数分で垣間見られて,少し感動すら覚えてしまった.「僕はねえ,もう研究以外の仕事は断ってねえ,自分で一人で実験してるんですよ.この年になって○○を初めて習いましたよ.」と本当に目を輝かせて楽しそうに話しているのを見て「こういう人になりたい!」と思わせてくれたのでした.